「植松被告」に死刑判決でも事件が不可解な理由 裁判員制度による「核心司法の問題点」を露呈
かつて私が取材したオウム真理教事件でも、死刑囚の裁判は生い立ちからはじまって、親子関係や宗教観、教団との出会い、入信の理由、出家後の生活などなど、あらゆることを本人に語らせていた。
「あなたのことを、裁判官によく知ってもらうためだからね」と、前置きする弁護人もいた。親が出廷して、どんな育て方をしたのか証言したり、マインドコントロール理論も取り上げられることがあった。さまざまな角度から事件が検討され、理由が書き込まれて判決が言い渡された。「精密司法」と呼ばれるものだ。
それが裁判員制度の導入で、一般市民である裁判員の負担の軽減が必要になる。手続きの簡素化と期間の短縮が求められ、争点や証拠を公判前に絞り込む「公判前整理手続」が行われるようになった。事件の核心と裁判の結果が重要であって、論点が絞り込まれているから、そのほかのことを細かく知る必要はない。これが「核心司法」とされる。
植松被告の被告人質問は、たった3期日だった。もっとも、弁護側は大麻精神病による心神喪失を主張しているから、犯行動機を探る必要がなかったことも事実だ。
彼には、現実感覚がない
ただ、そこに植松被告の“軽さ”が拍車をかけた。
初公判で「皆様に深くおわびします」と、はじめて謝罪の言葉を口にしたのはいいが、その直後にいきなり右手の小指をかみ切ろうとして、複数の刑務官に取り押さえられている。
その後の公判でも、誰にお詫びしたのか、被害者参加制度を利用した遺族や被害者家族に尋ねられると、「皆様です」「亡くなられた方、ご家族です。迷惑をおかけしたすべての方です」と答えはするものの、その一方で「意思疎通のとれない人は不幸を生む」「お金と時間を奪っているから」「重度障害者を育てるのは間違っている」と主張している。
職員として働き出した当時、「障害者はかわいい」と言っていたことについても、「そう思ったほうが、仕事がしやすいからかもしれません」「そう思い込んだということだと思います」と答えている。もう最初から、障害者を人間とは認められずに、動物や自分の労働のための対象物にしかみていない言いぐさだ。
「彼には、現実感覚がないのではないか」
傍聴を続けていたある関係者はそう語っている。
「ただ目立ちたいだけにみえる」
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