自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほうです。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは、二重の意味で厚かましい。それこそ「下品」なやり方です。

ことほどさように、世の中は下品力あふれる人たちの厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されるのです。この転倒した世の中で、下品になりきれない多くの人たちが、心を折り、心を病んでしまっています。

ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないでしょうか? 少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということが、わかっていただけると思います。

神の前で反省し、悔い改めればいい

ちなみに、先ほどの「責任」という考えは、キリスト教ではまったく違った捉え方をします。キリスト教では人間は堕落した存在であり、到底自由を与えられるべき存在ではありません。

「自由」がもともと与えられていないのですから、「責任」など人間には最初からないということになります。逆に、自分のしたことに対して「責任」を取ろう、あるいは取れると考えること自体が、愚かで不完全な人間の傲慢なのです。

『メンタルの強化書』(書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします)

人間は不完全で愚かであるから、必ずどこかで失敗し、罪を犯します。その時に神に向かってrespons、すなわち弁明することは許されています。そして神の前で反省し、悔い改めることだけが求められているのです。

では、人間の罪の責任はだれが負うのでしょう? それは人間を作り出した神が自ら負うのです。神の子イエスがゴルゴタの丘で自らの命を捧げたのは、まさに愚かな人間の罪を贖うためでした。

そんな視点から改めて世の中を見ると、巷間言われている「自己責任論」など、なんともちっぽけでつまらないものに思えてこないでしょうか? 詳しくは拙著『メンタルの強化書』に書きましたが、愚かな人間は互いに手を取り合うことなく、取ることもできない責任を勝手に作り出し、それによって同胞をおとしめ、自分だけが這い上がろうと足掻いているのです。なんとも哀れで滑稽な姿に見えてきます。

現代社会の価値観にどっぷりつかっていると、えてしてその価値だけが唯一のように錯覚してしまいます。しかし、視野を広げ、時間と空間を広げてみれば、考え方や価値観、生き方の解は決して1つではないことに気がつくでしょう。

佐藤 優 作家・元外務省主任分析官

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

さとう まさる / Masaru Sato

1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了。

2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。2006年に『自壊する帝国』(新潮社)で第5回新潮ドキュメント賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『読書の技法』(東洋経済新報社)、『獄中記』(岩波現代文庫)、『人に強くなる極意』(青春新書インテリジェンス)、『いま生きる「資本論」』(新潮社)、『宗教改革の物語』(角川書店)など多数の著書がある。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事