富野由悠季「ガンダムで伝えたかった」熱い信念 監督が作るロボットアニメは伊達じゃない!

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ここでは『Zガンダム』の中で時代に翻弄され、格闘する人物を描こうとすることと、諸問題を抱えた現代社会で生き延びようとすることが、ほぼ等号で結ばれている。富野監督にとっては、作中の出来事というのはいつもそれぐらい“真実”なのである。

なお富野監督は、TV放送20年後の2005年から、TVシリーズを再編集した劇場版『Zガンダム』3部作を制作する。そこでは「時代はこうなのだ」というTVの時の問題意識の先に、「では人はなにをよすがに生きるのか」という“処方箋”が加えられている。20年の間に富野監督の考えがどのように深まったかを追跡するには、興味深いサンプルとなっている。

モビルスーツはなぜ「人型」なのか?

富野監督のこの自作の世界に対する姿勢については、同業者である山賀博之監督も指摘をしている。以下は、1993年に庵野秀明監督が編集した同人誌『逆襲のシャア友の会』に掲載された山賀監督のインタビューの引用だ。

「今度のやつはスペースコロニーを舞台ということで、という感じじゃやってないんだ。スペースコロニーがあると思っているんだ。未来にあるとか過去にあるとかじゃなくて、その世界にスペースコロニーがあると思っている。そこにモビルスーツがあると思っている。すごい単純なことだけれど、全然これはなかなかできることじゃない」

「(引用者注:スペースコロニーの)島3号なんて計画聞いただけで、鼻で笑うじゃん。そんなとこに人間住めるかって思うじゃん。でも、真面目に『人間こういうとこに住んでんだよ、悲しいんだ』とか、富野さんは考えてんだよ」

実際、富野監督は、モビルスーツが人型をしている理由を尋ねられると「宇宙の中に放り出された人が見つけた時に、人型だと作中の人たちが安心できるから」と説明することがある。これはもちろんいくつかの理由の1つであるが、宇宙で働く人々の寂しさが人型ロボットを求めたのだ、という発想は、山賀監督の指摘そのままといえる。

富野監督はしばしば、ロボットアニメというジャンルや、TVアニメという表現手段をあえて下に見たような言葉を発することがある。だがインタビューなどを読めばわかるとおり、富野監督は言葉以上に、アニメという表現手段に信頼を寄せている。富野監督は、アニメは抽象的・記号的側面が強い表現だからこそ、普遍的・象徴的に世界の諸問題を扱うことができる、というところに実写にはないアドバンテージを感じている。

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