いつも戦場。思い続ける力~再建・大不況・電気自動車--益子修・三菱自動車工業社長
急きょ、三菱グループによる支援体制が組まれ、三菱商事も営業担当役員を派遣することに。「やってくるよ」。益子は部下を集めて言った。過去、商事の自動車事業本部長が「外」に転出した例は一度もない。
「失敗すれば、商事に戻っても、決していい目は見られない。そんなことは人にやらせちゃいけない」
待っていたのは、底なし沼だ。新たなリコール隠しが続々明らかになり、車は全然売れない。9月中間期はまたしても1461億円の大赤字。再度、資金繰りがピンチになった。2回目の絶体絶命である。
支援を継続すべきかどうか--。三菱自動車を支える「御三家」(三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行)も揺れた。が、“捨てる”選択肢はすでになくなっていた。
1回目の金融支援で、「三菱」はJPモルガンやファンドも巻き込んだ。転換価格の下方修正条項がついた優先株という仕組み自体が変則的であり、JPモルガンが引き受けた1260億円は、一般株主の犠牲のうえに、実質的には市場から調達したものだった。もし、三菱自動車が破綻すれば、「三菱」は二重三重に市場を裏切ることになる。自動車以上に「三菱」が追い詰められていた。
05年1月、いわば「三菱」を救うために、新社長に選ばれたのが益子である。「できない」と思った。心の準備も何もない。が、4日後に再建計画の記者会見がセットされていた。仕切り直しの時間はない。
指名したのは、三菱重工会長の西岡喬(三菱自動車会長)だ。西岡は「明るくやれ」と言った。西岡と益子の接点はほとんどない。にもかかわらず、選ばれたのは、なぜか。
三菱東京UFJ銀行相談役の三木繁光(当時会長)が言う。「(支援体制のカギは)3社(重工、商事、銀行)がさらに踏み込み、それぞれ責任を持つこと。その点では一致していた」。が、責任を具体的にどう分担するか。3社がにらみ合った。
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