いつも戦場。思い続ける力~再建・大不況・電気自動車--益子修・三菱自動車工業社長
若い益子へのいたわり、そして、益子の「仕事」への期待と感謝がある。韓国は国の威信を懸け自動車産業の創出に邁進していた。現代自動車は日本からの技術供与を求め、大半の日本メーカーが逡巡する中、提携に踏み切ったのが、三菱自動車だ。益子の仕事は、現代側と三菱自動車の間の潤滑油になることだった。
まだわびしい漁村だった蔚山(ウルサン)・現代自動車の工場に足繁く通った。ある日、三菱自動車の責任者を宿舎に訪ねると、「現場の鬼」と呼ばれたその人が、窓の雨を見て静かに泣いている。「雨の日に交通事故で死んだ息子のことを思い出すんだ、と。あんなに厳しいこの人に、こんな一面がある。あぁ、人間って、いろんなものを背負って生きている」。
日本的経営を韓国はなかなか受け入れない。思わず、声を荒らげる。そして宿舎に帰れば、悲しい思い出の雨が降るのである。
一方の韓国側にすれば、「何で日本人に怒鳴られなければならない。韓国をバカにしているのか」となる。この野郎、ぶっ殺してやる。不満が臨界点に達したとき、韓国側の工場長が立ちはだかった。「この人は韓国をよくしようと思って言ってくれている。なぜ、それがわからない。自分はたとえ、毒入りのグラスでも、この人が飲めと言えば、飲む」。
「日本にも韓国にもサムライがいる」と思った。ガンガン真一文字に指導する日本の技術者もすごいが、命懸けでそれを受け止める工場長もすごい。「オレにはできない。世の中、でっかい人がいっぱいいる」。日本の思いにも、韓国の思いにも、すっと寄り添えるのが、益子である。
益子の後任となる白地浩三(現三菱商事・自動車事業本部長)は「この人はジェームス・ボンドか」と思った。丸の内にいたと思えば、今日はソウル、蔚山、はたまた田町。「神出鬼没だった。技術供与の中身や対価。相手の話をよく聞き、折れるところは折れる。現代側とびっくりするくらいの関係を作り上げた」。
作り上げた関係の霊験は絶大だった。韓国がトラック輸入を解禁したとき、益子は圧倒的な注文を獲得し、三菱商事は82年に現代自動車に出資する(後に解消)。88年に三菱自動車が上場できたのも、現代との提携で稼いだ収益が一役買っている。
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