いつも戦場。思い続ける力~再建・大不況・電気自動車--益子修・三菱自動車工業社長

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 ジャカルタ時代の“戦友”の一人、日本郵船副社長の倉本博光が言う。「明るいわ。清廉潔白。普通、商社マンは功名心でギラギラしている。そういうところが全然、ない」。

自己分析によれば、益子には自ら「決定的」と思う性格因子がある。たとえば、組織の害悪のような上司がいる。益子もウンザリだ。そんな人物の中にも、美点を発見するのが益子である。「あっ、この人は僕にないものを持っている。自分がいかに未完成か。ここは見習おう」。すると周りの風景がまったく変わってくる。

最悪の中にも光を見る。相手を見つめ、共感点を探る。見つめられ、共感されることによって、相手は益子に引き寄せられる。益子はあくまで明るい“磁場”である。

蔚山に降る雨 日韓のサムライ

当てが外れた。益子が就職先に商社を選んだのは、東京の親元を離れたくなかったからだ。メーカーなら最初は間違いなく地方の工場勤務だ。商社なら当面、東京だろう。

ところが、3年目に韓国駐在を命じられた。上司に食ってかかった。東京を離れるのも不満だが、三菱商事の自動車部の主流は今も昔も、タイでありインドネシアだ。「タイとインドネシア以外は三流ですか。おかしいじゃないですか」。上司が言った。「自分の仕事に上司を振り向かせるのがお前の仕事。オレが韓国に関心を持つようにしてみろ」。

赴任した韓国は、朴正煕大統領(当時)が「維新体制」を掲げ、非常戒厳令下にあった。夜の12時から2時までは外出禁止。手紙には検閲の痕跡がある。「北」との戦争に備え、1週間のうち2日はコメ以外の雑穀・麺類の昼食が義務づけられていた。出張でソウルに来た先輩が気の毒がった。「スイトンか。戦中は食ったんだよな。君も大変だな」。

全然、大変ではなかった。「スイトンもおいしいし、公私とも本当に大事にしてもらった。韓国時代、嫌な思いをしたことは一度もない」。赴任の前年、大統領夫人が在日青年に狙撃され、対日感情は最悪だった。が、何人もの韓国人から言われた。「もし、日本人排斥運動が起こっても、あなただけは守ってあげる」。

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