いつも戦場。思い続ける力~再建・大不況・電気自動車--益子修・三菱自動車工業社長
だが、商事本社はインドネシア以外の販売を認めない。かろうじてOKが出たのが南太平洋の島々。「回ったよ。トンガ、パプアニューギニア、ソロモン諸島」。それでも、1台、2台のオーダーだ。
益子が目をつけたのが、インドネシアを拠点とするインド人の輸出商である。しばらくして、本社からクレームが来た。「お前は密輸をやっているのか」。ザンビアに三菱製トラックが大量に流れ込んでいる。調べたら、出所はインドネシアだ。
益子は「インド人が動いているのは知っているが、(彼らがどこに売ろうと)私の関知するところではない」と澄まして答えた。「いろんなことをやったよ。生きるために」。
経営の極限を体験した益子は、人の世の極限にも立ち会った。通貨危機の翌年、ジャカルタが“戦場”になり、華人街で凄惨な殺戮、レイプが繰り広げられた。華僑たちはベンツで空港に殺到し、その場でベンツを捨て値でたたき売って海外に逃亡した。やがて華僑たちは戻ってきたが、トラウマが消えない。
販売会社のオーナーは大半が華僑だった。「僕の前で泣いた人が何人もいます。焼き討ちに遭った販売店は全部回りました。一緒に再建しましょう、協力します」。バブルにまみれた販売会社を見切った益子が、このときは迷わず全面支援に回った。
にらみ合う御三家「彼はいいぞ」
03年4月、益子は本社の自動車事業本部長を拝命した。ゆくゆくは常務取締役のイスは保証されたようなもの。ところが、事業本部の収益基盤の三菱自動車がおかしくなった。
北米セクハラ問題やリコール隠し。三菱自動車にトドメを刺したのは、ダイムラーの指揮の下、北米子会社が展開した「トリプル・ゼロ」作戦だ。頭金ゼロ、金利ゼロ、1年間は支払い金ゼロ。サブプライムローンの大々的な先駆けだった。
1年後、支払いができない顧客から山のように車が戻って来た。中古市場に三菱車があふれ、ブランド価値はどん底に転げ落ちる。04年3月期は2154億円の大赤字。そしてダイムラーが逃げ出した。
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