グレタへの強烈な賛否が映す世代闘争に潜む罠 社会の優先順位が崩れ分断招くおそれもある
海洋生物学者のレイチェル・カーソンが著した『沈黙の春』(1962)が先鞭をつけたことが有名だ。「すべては、人間が自らまねいた禍いだった」という言葉が印象を残す書き出しから始まるこの本は、農薬などの化学物質による深刻な環境汚染に警鐘を鳴らしたものだった。
1960年代のアメリカでは、第2次世界大戦後に生まれた「ベビーブーマー」の若者たちが「親世代」に反抗する形で、公民権運動やベトナム反戦運動、女性解放運動などを牽引し、日の目を見ていなかった環境保護運動も前面に押し出した。
高度経済成長期の日本でも同様の反発が湧き起こり、学生運動をはじめ数多の社会運動の呼び水になった。そこには、閉塞した時代状況とそれによる生きづらさに根差した「親世代の価値観に対する不満や反発」があった。
1960年代と現在、重なる対立の構図
社会学者の小熊英二は、1960年代の学生運動の背景について、「マスプロ教育の実情に幻滅し、アイデンティティ・クライシスや生のリアリティの欠落に悩み、自傷行為や摂食障害といった先進国型の『現代的不幸』」に直面しつつあった社会状況を指摘している。
そして、ここが最も重要なところなのだが、1960年代の学生運動を「ベビーブーム世代の『あるべき社会像』『あるべき大学像』というモラル・エコノミーを、当時の社会と大学が裏切っている、とみなしたことによる蜂起」と捉えていることだ。
時代も地域も大きく異なっているが、この構図を現代の地球温暖化対策を求める抗議活動に置き換えると、「Z世代、ミレニアル世代の『あるべき社会像』『あるべき企業像』というモラル・エコノミーを、現在の国や企業が裏切っている、とみなしたことによる蜂起」となるだろう。
モラル・エコノミーとは、ざっくり言えば公共の福祉を優先する「道徳的な経済」のことである。おそらくこの場合の「あるべき社会像」とは、「危機的な状況にある地球環境に配慮した経済活動が行われる社会」となることから、「地球環境の持続可能性を無視した経済活動のすべて」が「背信行為」に映るわけである。
グレタさんとその家族によって記された以下のやり取りがわかりやすい。
これは家族同士のコミュニケーションの場面にすぎないが、このような「背信行為」のロジックが国や企業にも適用されるのである。「この危機の原因をつくったのは全員じゃなくて、ごく一部の人たち。だから地球を救うためには、彼らの会社、彼らのお金を相手に闘って、責任をとらせなきゃ」というグレタさんの言葉に見事に表れている(同上)。
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