まるで戦場「香港の大学」でその時何が起きたか それでも日本人研究者の彼が香港に残る理由
――「香港人ではないからそのようなことが言える」という意見にはどう反論しますか。
「香港人」とはいったい誰のことを指すのでしょうか。例えば私が香港で移民研究をしてきた中で「エスニックマイノリティ」(ある地域・社会の少数民族)と言われる人たちとの出会いがありました。それこそインド人やネパール人の中には、多数派である中華系の香港人の両親や、その祖父母が香港に移民する前から香港に住んでいる、という人たちもいます。でも彼らはずっと、香港の政治や社会から排除され続けてきました。
理由は簡単で、まず言語の問題。広東語ができないと、香港の政治を理解することは難しい。昔はアパルトヘイト政策みたいに、マイノリティーが行く学校とそれ以外の人たちが行く学校も実質分けられていました。そうすると、おのずと大学進学率にも差が出てきてしまう。
今回、デモが起こって、彼らの生活にも初めて影響が出たり、彼ら自身もデモに参加したりして、政治に関心を持つきっかけになった。では、彼らは今まで「香港人」ではなかったのか。
ここ数十年で構築された「香港」という極めてあいまいなアイデンティティーに乗っかって、他者を排除するというのは、逆に自分がいかに社会的に構築されたものの一部か、ということの証明にもなってしまうのではないでしょうか。
小さな主語で物事を見なければならない
われわれはもっと小さな主語で物事を見ていかないといけない。今回のデモは巻き込む人数や組織が非常に多く、社会にも大きな影響を与えています。でもだからこそ、大きな主語で語ることは何の意味もないかもしれないと感じます。
「北京が」「香港政府が」「香港人が」――。そういった大きな主語は、結局のところ誰がやっているかわからないから、推測に推測を重ねたものになり、最後には陰謀論になってしまう。
陰謀論もそうですが、メディアも見たい人が見たいものを描く。特定の「誰か」や、組織を責める人がいるのも仕方がないことですし、それぞれが自他に対して、責任を問い続けること自体は重要なことです。でも、誰かが長期的なストラテジーを描いていく必要がある。少なくとも研究者や、立法会の政治家は誰かの責任を問い続けるだけではいけないんじゃないか。未来を探していくこと、混乱の中にあっても、長期的な視座で答えを出していくのが仕事だと、私は思っています。
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