子供のヤケド治療で地獄をみる家族が持つ疑念 重症熱傷でも皮膚移植なしに治す治療がある
なぜ彼らは患者が苦しんでいることに気がつかないのか。それは、医者になってからこのかた、熱傷治療では苦痛で顔を歪めて悲鳴を上げる患者しか見たことがないからだ。だから、それが苦痛であると認識できないのだ。
すべての患者が悲鳴を上げていれば、それは治療に付き物の反応となり、異常ではなく正常な反応となる。悲鳴を悲鳴だと認識するためには、悲鳴を上げない患者を見ることが必要だが、彼らは悲鳴を上げない患者を見たことがないのだ。だから、彼らにとって、患者の悲鳴は「正常な反応」なのだ。
なぜ彼らは、その道が地獄に通じていることに気がつかないのか。それは、本物の天国を見たことがなく、「ここ(地獄)は天国だ」と教えられてきたためだ。教科書や治療ガイドラインに「天国に通じる最善の治療」と書かれていれば、到着したところは天国に決まっているのだ。
地上の楽園と教えられて行った先が収容所群島でも、そのことに気がつくことは一生ないのだ。そして、死ぬまで収容所を天国だと信じて暮らすのだ。地獄を地獄だと認識できる者は、天国を経験した者だけだ。
疑うことを知らない無批判な善意という恐怖
教科書や定説を疑うことがない純真で無垢な善意の人は、その定説の根拠が間違っていたときに、地獄への案内人となる。「この正しい教えを世に広めたい」という善意を出発点としていて、その教えの無謬性に対して絶対的な信頼を寄せているため、「教えを疑う」という発想がそもそも浮かばないのだ。
その意味で、悪意より怖いのは、疑うことを知らない無批判な善意だ。十字軍の暴虐も魔女狩りもホロコーストも民族浄化も、根底にあるのは「教えの無謬性に対する絶対的信頼」であり、批判精神の欠如だ。疑うことを知らない無垢で無辜(むこ)な底なしの善意だからこそ、この世を地獄に変えられたのだ。批判精神のない善意ほど恐ろしいものはないのである。
ヨーロッパの古いことわざに、「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions.)」という警句がある。おそらく、この警句はこれから何度か登場するだろう。
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