埼玉「芝川」氾濫も大半の住宅が難を逃れた背景 台風19号の増水で見沼たんぼが果たした役割

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浸水した見沼たんぼ(筆者撮影)

埼玉県や見沼たんぼのホームページによると、縄文時代は東京湾の海水が流れ込む入江だったが、荒川が運ぶ土砂でふさがれて弥生時代には沼地になった。

江戸時代になって三代将軍・徳川家光が灌漑用水池とするように命じ、現在のJR東浦和駅近くに「八丁堤」と呼ばれる堤を築いて溜池とした。その後、八代将軍吉宗が新田開発を命じ、見沼溜池を干拓。代わりに利根川から「見沼代用水東縁」と「同西縁」という2本の用水路を引いて田んぼに生まれ変わった。この見沼たんぼの中央に排水路として掘削したのが芝川である。

この広大な土地が行政によって市街化が抑制されている「市街化調整区域」として保全されてきたのは、芝川下流域の川口市で戦後、市街化が急速に進み、水害が頻発したためと言われる。1954年に芝川の排水能力を高めるため新たに芝川放水路(新芝川)を開削する工事に着手するとともに、見沼たんぼを「自然遊水地」として活用することが決められた。

「見沼三原則」が制定

その後、今回の台風19号に匹敵した1958年の「狩野川台風(かのがわたいふう)」でも水害が発生。この台風で芝川下流域の川口市市街地が浸水したが、このとき見沼たんぼが自然の貯水池となって水を受け止め、下流の被害を抑えた。

ここで見沼たんぼの遊水機能が注目され、1965年には芝川下流域を洪水被害から守る遊水機能を保持するために埼玉県の県政策審議会で、宅地化を原則として認めない「見沼三原則」が制定された。

1.  八丁堤から北側、県道浦和岩槻線(現・さいたま幸手線)までは、将来の開発にそなえて現在のまま原則として緑地を維持する

2.  県道浦和岩槻線から北側は適正な計画と認められるものについては開発を認める

3. 芝川改修計画に支障があると認められる場合は農地の転用を認めない
次ページ1969年、都市計画法に基づく区域区分も設定
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