日本経済はどんな病気にかかっているのか 政府の成長戦略は「やった振り」で終わる?

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加えて、2015年版『労働経済白書』の言葉も紹介しておこう。

ユーロ圏およびアメリカでは実質労働生産性が上昇する局面において、若干の水準のギャップは見られるものの実質賃金も上昇を続けている。一方、わが国においては、実質労働生産性は継続的に上昇しており、その伸び幅もユーロ圏と比較するとそれほど遜色ないといえるが、実質賃金の伸びはそれに追いついていない状況が見られ、両者のギャップはユーロ圏およびアメリカよりも大きい。

要するに成長ではなく、「分配」の問題だ

1 人当たり生産性は伸びているのに賃金が伸びない。問題は、労働分配率の低下傾向、さらには、所得分配の格差のあり方にあることは言うまでもない。つまり、この国の経済が抱えているのは、「成長」問題よりも、「分配」問題なのである。

そうは言っても成長というのは政治の七難を隠すと言われている。いや、成長を口にしておけば政治自らの七難を隠すことができるというほうが正確だろうか。だから、成長戦略という言葉は、いつの時代も政治的魅力を持ち続けてきた。

10年前の民主党政権下でも、野党の自民党が、与党・民主党には成長戦略がないと責めれば、にわかに「新成長戦略」が菅直人総理の下で作り上げられたりして大いに盛り上がっていた。そして当然と言えば当然なのだが、菅元総理は、「成長戦略は十数本作ったが全部失敗している」と発言し、「成長戦略」を政策の柱に掲げる自民党を批判していた。

なお、菅元総理の「成長戦略は全部失敗している」発言について、菅内閣時に民間から内閣官房国家戦略室に審議官として出向していた水野和夫さんは「首相時代の発言で一番よい」とも評しているし、私もそう思う。

このあたり、経済成長の主因である全要素生産性(TFP、成長率から資本と労働の寄与を除いた残差)に対して不可知論、つまり全要素生産性を向上させる方法はよくわからないと公言した、成長論のパイオニアであるロバート・ソロー(米マサチューセッツ工科大学経済学部教授)は、なかなか立派な学者だと思っている。

彼は、経済成長の主因たる全要素生産性を「無知の計量化」と呼び、これを左右する原因を論じようとすると、「素人社会学の炎上」に陥ってしまうのがオチと評していた。

先述したクルーグマンなどは、アメリカ経済の停滞期に書いた本の中で、アメリカの生産性は「なぜ停滞したの? どうすれば回復するの? 答えはどっちも同じで、『わかりませーん』なのだ」と、経済学者としての見解を正直に語っていた。

成長の理由がよくわからないのだから、政策を打ちようがない。だからクルーグマンは、「生産性成長は、アメリカの経済的なよしあしを左右する唯一最大の要因である。でもそれについてぼくたちは何をするつもりもない以上、それは政策課題にはならない」とも語っていた。

もちろん成長を起こすのはイノベーションではある。だが、これを言った経済学者ヨーゼフ・シュンペーター(1883~1950年)は、イノベーションの起こし方には生涯触れていない。強いて言えば、歌を歌う能力同様に経済上の創意にも分布があり、「最上位の4分の1のもの」がイノベーションを起こしうるとは論じていたが、だから何?の話である。

しかし、日本の民間企業は絶えず、トライアル・アンド・エラーを繰り返しながらイノベーションを起こす努力をしており、その成果も出ているのである。

「やった振り」のなんちゃって政策で終わったりして

成長がなぜ起こるのか、成長の主因であるTFPはいかなる要因によって上下するのかの問に答えることができないとすれば、成長はコントロール可能な政策対象になりようがない。

これに類する話として、目下、成長戦略と並んで日本の政策の柱になっているものに、「予防で医療費削減」に代表される健康・予防政策というものがある(『中央公論』2019年1月号「喫緊の課題『医療介護の一体改革』とは-忍び寄る『ポピュリズム医療政策』を見分ける」を参照)。たしかに、日本老年学会・日本老年医学会は、「現在の高齢者においては10~20 年前と比較して加齢に伴う身体・心理機能の変化の出現が5~10 年遅延しており 「若返り(rejuvenation)」 現象がみられている」ことが明らかになり、「高齢者の定義再検討」として、65~74歳を準高齢者、75歳以上を高齢者とするべきであると提言はしている。

しかしながら、両学会は、「若返り」 現象の原因については一切触れておらず、「若返り」そのものが、健康・予防政策として政策対象とされることには慎重な姿勢を示している。彼らは健康寿命という科学的に計測することもできない曖昧な言葉を使うことの危険性も認識しており、客観指標としてフレイル指標の開発も進めている。

ところが主導する経済産業省の手の込んだプレゼンのおかげなのか、成長戦略、健康・予防政策はとても盛んで、今や、日本の2大政策の体をなしている感がある。成長は望ましい、健康になることは望ましい、これは間違いない。しかしながら、望ましいからという理由のみで、政策の対象になりうるものではない。

七難隠す成長も、念ずれば通ずるものならばよいのであるが、今はやりの政策は本当は、財政と現業に責任を持つ財務省と厚労省が求める政策をブロックするための門番・経産省の方便となっていないかという仮説も成立したりする。

後は野となれ山となれと、ほかにやらねばならない重要なことを先送りした、やった振りのなんちゃって政策ばかりだったと、将来、人の記憶に刻まれるだけにならなければ良いとも思うのだが、さてさてどうなることやら……仮説の検証は歴史に委ねよう。そして、そうした観点から、社会保障の行く末も眺めておこう。

権丈 善一 慶應義塾大学商学部教授

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けんじょう よしかず / Yoshikazu Kenjoh

1962年生まれ。2002年から現職。社会保障審議会、社会保障国民会議、社会保障制度改革国民会議委員、社会保障の教育推進に関する検討会座長などを歴任。著書に『再分配政策の政治経済学』シリーズ(1~7)、『ちょっと気になる社会保障 増補版』、『ちょっと気になる医療と介護 増補版』など。

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