ノーベル経済学賞「実証実験による貧困対策」に 経済学は「モデルから実証へ」潮流が変化

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さて、彼らの受賞で経済学が変化するだろうか。

 この点は、必ずしもはっきりしない。ノーベル賞はある意味で、すでに確立した業績に対して与えられるものだ。だから、ノーベル賞を受賞したということは、その考え方がすでに定着しているということでもある。少なくとも経済学の研究者や開発援助畑の人々で、ランダム化対照実験について耳にしたことがない人はいないはずだ(その細部まで理解しているかはさておき)。

それどころか、いまやランダム化対照実験は開発援助の現場などでは濫用気味とさえ言われる。すでに十分知見がある領域ですら、無意味に対照実験が行われたりするのだ。対照実験はもちろん、標本抽出、施策の実施、結果集め、分析、という長期間の作業が必要なので、人手もお金もかかる。つまりは予算を水増しする口実に堕しているという悪口さえある。

だが、それはもちろん、今回の3人の責任ではない。開発援助の現場は昔から、思い込みの激しいNGOや、貧困者をダシに自分の懐を肥やそうとする輩の巣窟だし、「制度」「構造改革」「ジェンダー」「BHN(basic human needs)」といった、個人的には大した意味があるとは思えないお題目が幅を利かせ、政治的思惑に激しく左右される分野である。

ランダム化対照実験がそれより特にひどいとは思わない。無意味な流行はいずれ何らかの揺り戻しが来るだろうし、また実証実験が可能となったことで、これまでの変なお題目もチェックを受けることになるのではないだろうか。

さらに、この手法自体は経済学の他の分野にも応用できる。産業政策、貿易などさまざまなサブ分野で、このランダム化対照実験は応用されつつある。今回の受賞がその動きをさらに促進する可能性は十分にある。もちろん、すべての分野でこうした対照実験を行うわけにはいかない。日本の半分は消費税据え置き、残り半分は引き上げ、といった対照実験は不可能だ。それでもきちんとした実験に基づく、しっかりした知見はますます増大するはずだ。

若手の受賞、新しい学問への評価は続くか

もう1つ。つまらないことではあるけれど、今回の受賞者はものすごく若い。エステル・デュフロ(46歳)は、ノーベル経済学賞の最年少受賞記録を大幅に塗り替えた。最近のノーベル賞は、そこそこ高齢化が進んでいた。もう十年以上にわたり本命視されつつも未受賞の人は多い。いまやノーベル経済学賞は死に神との競争だとすら言われ、半世紀前の業績でノーベル賞がめぐってくるのをひたすら待つ高齢の重鎮を「ノーベル賞ゾンビ」などと呼ぶ不謹慎な冗談もたまに耳にする。

相対的に若手の受賞が今後もトレンドとして続くかどうかは不明だ。だが個人的には続いてほしいと思う。こうした賞は、本来であればお遊びであり、システマチックに分野への貢献度を計算して、業界の序列にあわせて順番に与えるようなものではないはずだ。少なくとも外野の立場としては、そんなものだけではつまらない。

年功序列など度外視した、純粋な研究のおもしろさやパイオニアとしての役割だけを基に、比較的新しい学問的トレンドも評価してくれたほうが楽しいし、賞としての面白みも高まる。今回の受賞が、そうしたノーベル賞選考の方針変化を反映するものだと楽しいのだけれど。

山形 浩生 翻訳家

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やまがた ひろお / Hiroo Yamagata

翻訳家。1964年東京生まれ。東京大学工学系研究科都市工学科修士課程、マサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。大手調査会社に勤務する一方で、科学、文化、経済、コンピューターなどの幅広い分野で翻訳・執筆活動を行っている。著書・翻訳書多数。訳書にシラー『それでも金融はすばらしい』(2013年、東洋経済新報社)のほか、ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)バナジー&デュフロ『貧乏人の経済学』(みすず書房、2012年)などがある。

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