「事故物件住みます芸人」はこうして誕生した 8万部ヒット著書も持つ松原タニシの軌跡

✎ 1〜 ✎ 67 ✎ 68 ✎ 69 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

駅前でゲリラライブをしていると、駅員などに怒られることがわかった。

ならば芸をしていない芸人が駅前の掃除をしたらいいのではないか?と思った。

「1人がネタをしている間、ほかの4人は全力でゴミ拾いをしました。そうしたら怒られなくなりました」

自主的なライブだからもちろんギャラはない。交通費は自腹だから、むしろ赤字だ。回を重ねるごとに、大阪から離れて行くため時間もお金もかかる。

「儲けにはなりませんが、やってるとうまくいってもいかなくても達成感はありました。結局、大阪~広島各駅路上ライブは、4年かけてクリアすることができました。

姫路でライブをしている時、商店街の劇場から声をかけられて

『よかったらうちの劇場で毎月やってよ』

って言われて、無料ライブをさせてもらうことになりました。もちろん無料ライブなのでギャラはありません。それから9年経ちましたが、いまだにやらせてもらっています。『2000円払ってでもやりたい』『損してでも劇場に出たい』って人だけがやり続けました。結局振り返るとそういう人だけが芸人として生き残っていると思います。

松竹芸能から仕事をもらっていた芸人は、売れないことに対する不満とストレスでやめてしまう人が多かったです」

有名番組には出れたけど…

26歳の時、人気のお笑いテレビ番組『爆笑レッドカーペット』に出演することになった。

当時はフリップ芸をしていた。

「出れたのはうれしかったんですが、自分の面白いと思ってる部分をプロデューサーに全部変えられてしまったんですね。それでも頑張ったんですが客にはまったく受けず、2度と呼ばれることもありませんでした。まあ結局自分の力の無さが原因なんですけどね(笑)。

有名番組には出れたけど皆の記憶に残ることはできませんでした。苦い思い出ですね」

20代後半はお笑い芸人としては低迷した。賞レースでは勝てず、テレビ番組の出演もなかった。

次ページそんな時に声がかかったのは…
関連記事
トピックボードAD
ビジネスの人気記事