だが中学に進学し自転車通学をするうちに、肥満は解消された。自発的に運動がしたくなってきた。
「中学時代はプロレスにハマりました。それでレスリングをしようと思いました。進学はレスリング部がある高校を選びました」
当時、新日本プロレスで活躍していたエル・サムライ選手が通っていた高校のレスリング部だというのも決め手の1つだった。
「高校時代はレスリングとビデオゲームに明け暮れましたね。部活が終わったらゲームセンターに寄って、家に帰ったらファミコンをするという感じでした」
レスリングでは最後の試合で東北大会準優勝という好成績をあげた。高校3年生からは進学クラスに進み、石巻専修大学に進学した。
大学進学後は上京し、ゲーム会社でアルバイト生活
「大学に進学したものの、田舎暮らしが嫌になってしまって1年で中退しました。ずっと東京に出る口実を探していました。当時『ドラゴンクエスト』を作っていたスクウェア・エニックスが、クリエイターの養成学校を開校しました。その学校に通うことにしました」
両親は進学を認めてくれた。
1年制の学校なのですぐに卒業になったが、なかなか人気の高いゲーム会社に入社はできなかった。
「片っ端から入社試験を受けまくって、ヒューマンという会社にアルバイトで入ることができました」
与えられたのは、ゲームのテストプレイをする仕事だった。ひたすらゲームをプレイして、バグ(プログラムのミス)を見つける。人によってはつらく感じる仕事だが、藤村さんは苦痛を感じなかった。
「毎日バグを出して、リポートを出していたら認められました。『藤村くん社員にならないか?』と声をかけられて、アルバイトしていたヒューマンに就職できました」
ヒューマンは「ファイヤープロレスリング」などプロレスゲームを得意とする会社で、その点でも藤村さんにはピッタリだった。
「会社ではゲームの開発をしつつ、サンボという格闘技の道場に通いました。ですが通いはじめて半年で、頚椎(首)を捻挫してしまいました。下手したら障害が残るレベルのケガで、それが原因で半年でサンボはやめることになりました」
それから2年は運動はあきらめ、黙々と会社で働いた。そんなある日母親から電話がかかってきた。
「父が食道がんにかかったからそろそろ帰ってこいと言われました。30歳くらいまでは好きなことをやろうと思ってたんですけど、少し早く帰らなければならなくなりました」
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