実は「温暖化の産物」だったモンゴル巨大帝国 「気候変動と生態環境」で捉えるアジア史
これを歴史に置き換えますと、問題は疫病そのものではなく、それをもたらす自然条件であり、かつ罹患する人の暮らし方になります。つまり世界史を常識的に見るなら、人間の生活とそれをとりまく環境条件の違いをまず考えなければならない、ということです。
生態環境でアジア史を捉える
世界の一半を占めるのはアジアですから、世界史を考えるには、そこを無視することはできません。そのアジア史でまず基本概念として注目すべきは、生態環境です。
広大な大陸なので、当然ながら多様な地勢・気候が存在しています。内陸には寒冷な乾燥地があり、南方の沿海には温暖な地域があって、それぞれまったく違います。そして気候が異なれば、自然の生態も人々の暮らし方も同じではなくなってきます。それは人生観、世界観、組織の作り方など、すべてに影響を及ぼしました。
そうしたアジアの生態環境は、突きつめれば乾燥世界と湿潤世界に二分できます。前者は遊牧地域と言い換えることも可能です。人々は乾燥気候ながら草本植物の生育する草原を求めて移動し、牧畜を営んで生きています。後者は農耕地域です。湿潤な気候の下で農地に作物を栽培しながら、定住生活を営む人々になります。
さらに地理的に見ると、パミール高原から四方に伸びる嶮峻な山脈は、自然の障壁となってきましたので、アジアは大きく4つの世界に分類できます。梅棹忠夫はアジアを4分割した概念図を提示していまして、これに手を入れたものを掲げます。
「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」「Ⅳ」はそれぞれ、東アジア、南アジア、北アジア、西アジアを指します。「Ⅲ」の北アジアには、もともとほとんど人が住んでいないので、実質的には「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅳ」の3つで考えられます。いずれにも遊牧地域と農耕地域とが併存していることに注目したいと思います。なかんずく重要なのは、その境界地帯です。
それぞれ生態環境と生活習慣が異なる以上、双方の産物も農産物と畜産品で異なっていて、互いに持っていないものでもあります。そこで各々の産物を交換すれば、ともに有益ですから、遊牧と農耕の境界地帯は、交易が起こりやすい条件にあります。
そこでマーケットが誕生し、集落ができ、やがて都市国家になっていきます。乾燥地帯のオアシス国家も、構造は同じでしょう。そこから古代文明が始まりました。
古代文明の基盤は、文字文化です。東の黄河文明・南のインダス文明・西のオリエント文明がそれぞれに発祥、発達しましたが、地理的な共通点があります。いずれも遊牧民と農耕民の近接する場所でした。
文明文化それ自体は、富を蓄積できた農耕定住民の手に成ったものでしょう。しかしそこで必要な条件は、移動交通の活発な遊牧民の存在・活動が傍らにあることです。近隣の農耕民は、彼らと接触、交流せざるをえませんから、それに応じられる集団・組織を結成運営する必要がでてきます。そのためには、意思疎通・記録保存の手段が欠かせません。
生業が遊牧のみ農耕のみで、互いに没交渉なら、各々その集団内部で、同じ生活パターンを繰り返していればよく、口伝・習慣で事足りますから、文字記録は不要です。その代わり外からの刺激も希薄で、文化は停頓しかねません。
太古の遊牧民は文字を持ちませんし、文字のない農耕文明も少なくありません。文字を発明し、文化を発達させ、国家を生み出したのは、遊牧と農耕の境界だったからです。
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