日本人にも中国「監視国家」化は人ごとではない 「私利私欲と公益」をどう両立させるのか

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ビッグデータによる「監視」のあり方を、他人事ではなく、われわれ自身がどのようにチェックしていくかを考えるべきではないでしょうか(写真:peterhowell/iStock)
テクノロジーの進展や情報の社会化にともなって、西洋近代の象徴ともいうべき「市民社会」が大きな転機を迎えている。とりわけ中国の「監視社会」が注目を集めているが、これらの問題をどう捉え、どう対処していけばよいのか。近刊『教養としての世界史の学び方』で「市民社会」の章を寄稿した梶谷氏が論じる。

市民の「動物化」とは

いま、市民の「動物化」という言葉が注目されています。これは批評家の東浩紀さんが、フランスの哲学者コジェーヴの議論を援用する形で用いることによって、日本でもよく知られるようになった概念です。

『教養としての 世界史の学び方』(書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします)

市民の「動物化」とは何か。「近代的な人間性(ヒューマニティー)」および「それに支えられた社会」、すなわち、しっかりとした自我を持った個人が他者との双方向的なコミュニケーションを通じて社会を形成していく、という「理想」とは逆のことが生じつつある、という問題意識から生まれた概念です。

つまり、他者との関係性を欠いたまま、資本主義的なシステムが手を変え品を変え提供してくる「商品」を刹那的に消費することで欲求を満足させる人々が増えていき、そのようなシステムの運用や改善は一握りのエリートに委ねられる。これが、人々が「動物化」した社会のイメージでしょう。

つまり「動物化」とは、後述するようなICT(情報通信技術)の普及に支えられた高度消費社会における市民的公共性の「危機」を喚起するキーワードとして、現在もなお有効性を保っていると言えるでしょう。

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