日本人にも中国「監視国家」化は人ごとではない 「私利私欲と公益」をどう両立させるのか
「市民社会」は(アメリカを含む)西洋社会の、そして日本のような非西洋の後発資本主義国の近代化を論じるうえで、欠かすことのできない概念です。しかし、論者やその立場によって使い方やニュアンスが異なるため、しばしば混乱を招きやすい用語でもあります。
したがって、「市民社会」について考えるには、それがそもそも取り扱いの非常にやっかいな用語だ、ということを認識しておく必要があるでしょう。
例えば、近代の「市民革命」を通じて成立したとされる自律的な市民社会にしても、一方では「法律の前での平等」の下で人びとが政治に参加することによってつくりだす「公民社会」、他方ではアダム=スミスが「商業社会」のモデルを通じて提示したような「自由な経済社会」という、二重の意味を持ち続けてきました。
このことは、近代西洋社会における「市民」が、資本主義的な市場経済の担い手(フランス語の「bourgeois=ブルジョワ」)であると同時に、国家主権との関わりにおいては、人間と市民の諸権利の主体(同じく「citoyen=シトワイヤン」)でもあるという、二重性を持つ存在であったことに対応しています。
そして冷戦崩壊後の1990年代以降は、NGOやNPOなどの国家とも営利企業とも異なる「第三領域」に属する民間団体、あるいはその活動領域を指して「市民社会」と呼ぶ動きが主流になっています。つまり、西洋社会にその起源をもつ、少なくとも3つの異なる概念に、日本では同じ「市民社会」という用語を当てるのが習わしになってきたのです。
そういったややこしい経緯をしっかりと踏まえたうえで、「市民社会」という概念を、現代社会を理解するうえでどのように使いこなしていけばよいのか。そういった問題意識に答えようと書いたのが『教養としての世界史の学び方』(第8章「市民社会」)です。
社会の情報化やテクノロジーの進展と「市民社会」
前述の東浩紀さんは、かなり早い段階から、ミシェル・フーコーによる「管理社会」批判の成果などを踏まえる形で、ハーバーマスら啓蒙主義的な思想家が擁護しようとした「市民的公共性」という概念が、ICT(情報通信技術)の普及に支えられた高度消費社会の中で急速に現実的基盤を失いつつあることを見据え、独自の現代社会論を展開してきました。
彼が15年ほど前に雑誌に連載した『情報自由論』では、人々が大資本や国家などの、ひたすら快適な生活空間を提供してくれる「環境管理型権力」によって飼いならされ、すなわち「動物化」された結果、自立した意思決定を行い、公共性を担うはずの「市民」はもはやどこにも実在しないのではないか、という問題提起を行っています。
確かに、現代社会における急速なICT(情報通信技術)の普及、生活インフラのインターネット化は、膨大な個人情報の蓄積とそれを利用したアーキテクチャーによる社会統治という、新たな「管理社会」「監視社会」の到来をもたらしているのかもしれません。
ある意味で、テクノロジーによる管理社会化の進化によって社会の「公」的な領域と「私」的な領域の関係性が揺らぎつつある現在、私たちはむしろ、私的な経済利益を追求する存在としての「市民(bourgeois)」と、より抽象的な人倫的理念を追求する「公民(citoyen)」との分裂をいかに克服するか、という古くて新しい問題群に改めて直面しているのではないでしょうか。
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