実は「温暖化の産物」だったモンゴル巨大帝国  「気候変動と生態環境」で捉えるアジア史

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そうした文明がさらに発展・拡大することで、西アジア・南アジア・東アジアそれぞれの広大な世界を統一する古代帝国が出来上がりました。オリエントを覆ったアケメネス朝ペルシア、南アジア・インドを統一したマウリア朝、東アジアの秦・漢、さらに地中海世界を包括したローマ帝国が、その典型例です。

【2】寒冷化と民族大移動

こうして進展した歴史に重大な転換をもたらしたのが、3世紀ごろから顕著になった気候変動、つまり寒冷化です。温暖な地域が多少寒くなった程度なら、まだ耐えられるでしょう。もちろん冷害や不作という意味では、農耕地域へのダメージも甚大です。しかし寒冷地がさらに寒冷化すれば、生命が危ぶまれます。

そこで厳しい環境に置かれたのが、北方の内陸地を移動する遊牧民です。寒冷化によって、草原そのものの面積が縮小したことは、想像に難くありません。牧畜ができなくては、生活生存できなくなることを意味しますので、かれらは移動・南下を始めました。

もともと機動力があり、軍事力も優れていましたから、周辺の人々を圧倒します。そこでいわば玉突き現象が起こって、多くの人々が武装難民化し、近隣の都市国家や古代帝国に侵入してきます。

迎える側が著しく混乱したことは、想像に難くないでしょう。これを契機として、古代文明の発祥以来の統治システムが機能しなくなり、新しい統治体系や社会構造が模索されるようになりました。これが例えば、「民族大移動」と西ローマの滅亡だったわけです。

とりわけ混乱が激しかった地域は、西ローマの旧領と中国の華北です。ここでは、農奴制や均田制などが導入されました。労働力を土地に縛りつけて最大限に活用し、土地の生産力をできるかぎり引き出そうとしたもので、急速に増える移民とその流動性に対応しつつ、生産力の減退を食い止める方法を目指したわけです。

あるいは、オリエント・地中海世界を席巻したイスラームも、その所産かもしれません。疲弊した社会で、新たな体制が望まれていたのでしょう。中東はイスラームを中軸として、古代のペルシア・ギリシア・ローマの伝統も含め、政治社会体系の再編を遂げていきました。

東アジアでも時を同じくして、仏教が広がっています。既存の信仰では救われない、と皆が思ったのでしょう。漢語圏の人々ばかりではありません。インドからシルクロードを経て伝来した仏教は、隣接する武勇に優れたトルコ系の遊牧民も信奉しました。経済力に富むペルシア系のソグド商人がもたらしたゾロアスター教やキリスト教と並んで、唐の拡大に大きく寄与しました。

温暖化と唐宋変革

9世紀になると、アジアは一大転換期を迎えます。気候が温暖化に転じたためです。その恩恵を最も享受したのは、寒冷地にある草原地域に暮らす遊牧民でした。温暖化で縮小していた草原が回復、拡大して、とみにその活動が活発になったのです。

現在のモンゴル高原あたりで強盛を誇っていた遊牧国家のウイグルが、中央アジアへ移動を開始したことが皮切りでした。以後、東から西へ、とりわけウイグルと同じトルコ系の遊牧民が、波状的に中央アジアから西アジアへ進出して、オリエント世界・イスラーム圏のありようを大きく塗り替えていきます。セルジューク朝の勃興や十字軍の遠征も、その所産です。

温暖化は東アジアにも、大きな変化をもたらしました。それまで遊牧世界も農耕世界も包括していた唐は、同じ時期に解体して、自立した遊牧国家が優位に立っています。ウイグルのあと、モンゴル高原を支配した契丹は、唐を後継した中国の諸王朝を圧倒しましたし、統一王朝の北宋とも、ほとんど対等の関係を結びました。

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