人間は自ら望んで「AIの家畜」になるのか 尊厳と制度で考える「近代」と「ポストモダン」
現代のAIの考え方は完全にこの延長で、人間の思考も感情も、すべては脳の電気信号であるわけだから、それは完全に機械で再現できるはずだし、なんなら身体に拘束された人間の脳よりも、もっとすごい思考を生み出すことだってできる、と考えるわけです。
そんなことが本当に可能なのかどうかは、私にはわかりません。新井さんは不可能だとおっしゃっていますね。だけど、「原理的に」不可能だとまで言えるのかどうか。新井さんがおっしゃっているのも、「現実的に」不可能だということだったと思います。
だとすると、やっぱり人間はそっちに向かっていくと思うんです。論理的に可能と考えられるものは必ず現実にしていく、というのが、近代を突き動かしてきた駆動力だと思う。ですから、シンギュラリティが2045年なのか、もっと先なのかは知らないけど、原理的に不可能でない限り、人間は必ずそこに向かっていくと思うんです。
そうすると、確かに当分の間は、新井さんがおっしゃるように「言葉で考える」というところに人間の優位性は残ると思うし、だからこそ哲学することが人間の人間たるゆえんであるという時代も続くと思いますけど、いずれ人間は、自ら望んでAIの家畜になるのかな、という気が私はどうしてもしてしまいます。悲観的すぎますかね?(笑)
人類の夢「AI社会」における哲学
斎藤:カント推しの古川さんがそんな悲観的なことを言っては困ります(笑)。だって、悲観的に考える人が増えれば増えるほど、未来は悲観的なほうにひきずられてしまう。そういう予言の自己成就のようなことになりかねないからです。
だから、あまり「人間vs AI」という対決図式にしてしまうのも考えものです。例えば、シンギュラリティまで至らずとも、AIによって少なからず人間の仕事が奪われるという未来予測はたくさん出ていますよね。ここには、ゼロサムで人間とAIが仕事を奪い合うという前提が置かれています。
でも、労働についても考え方は多様でしょう。「人間にとって労働は本質なんだ」と言う人もいれば、「いや、労働から少しでも解放されたほうがいい」と言う人もいる。古代ギリシャでは、労働は奴隷に任せて、市民は広場に集まって政治をしていたわけです。だから、多くの労働をAIなりロボットなりが肩代わりしてくれて、人間は別の活動に生きる意味を見いだす未来だって描けないわけではありません。
労働1つをとっても、奪い合いとは違うAIとの付き合い方を考えることができる。おそらく同じようなことは、AIが脅かすとされているさまざまな人間活動に言えると思います。
その意味では、哲学の分野もまた、AIを奇貨として、人間、知性、労働、社会、政治、そして倫理や道徳といった概念も鍛え直さなければいけないのではないでしょうか。