人間は自ら望んで「AIの家畜」になるのか 尊厳と制度で考える「近代」と「ポストモダン」
古川:確かに、その点についてはまったくおっしゃるとおりです。先ほどAI社会の到来は近代の必然だと言いましたけれども、もっと言えば、これはまさに古代ギリシャ以来の、人類の夢でもあったんですよね。『大人の道徳』でも強調したポイントの1つですけれども、古代ギリシャでは労働は奴隷がやっていて、当時の奴隷は現代でいう機械と同じだったわけです。
ですから、なぜ近代になってこれほど機械技術が発達して労働の機械化が進められてきたかというと、単に生産性を上げて利潤を増やそうとする資本主義の論理だけではなくて、実はそれによって、いよいよ人間が労働から解放されて、すべての人が古代ギリシャの市民のように自由に生きられる時代が来るのだ、ついに二千数百年来の夢がかなうのだ、というふうに、それがものすごく希望的に見られたからでもあるんですね。
人類はどこへ向かうべきか
古川:例えば、19世紀末のイギリスで、芸術こそが人間の生きる目的だという芸術至上主義を主張したオスカー・ワイルドという文学者がいますけれども、彼なんかも、「社会主義下における人間の魂」というエッセイを書いていて、「労働にとらわれていては、人間は美を享受することができない。労働は機械がやるべきだ。機械技術が発達してきた今こそ、すべての労働を機械にやらせ、それによってすべての人間が美と芸術を享受する社会主義を目指すべきだ」ということを言っているんです。これが西洋思想の伝統なんだな、というのをすごく感じました。
そう考えると、私が申し上げた見通しはあまりに悲観的すぎて、斎藤さんのようにもう少し希望を持ってもいいのかもしれませんね。先ほど、論理的に可能と考えられるものは必ず実現しようとするのが近代だ、と言いましたけれども、ワイルドのいうような社会もまた、1つの論理的に可能な世界だと考えれば、それを実現していくことに力を向けていくこともできなくはないわけですからね。
斎藤:ええ。もちろん人類の未来は楽観できるものではありません。貧困問題、環境問題、ポピュリズム、排外主義など、政治的にも経済的にもうんざりするほど問題は山積みです。他方で、AIやバイオテクノロジーの進展によって、人間様とふんぞりかえっていられる時代でもなくなってきました。
ここでもカントの問いが思い起こされます。カントは『純粋理性批判』のなかで、「私は何を知ることができるのか」「私は何をなすべきか」「私は何を望むことができるのか」という三つ問いを提示していますよね。いまや、これらの問いが人類規模で突きつけられている気がしてなりません。まさに論理的に可能な世界から、人類は何をなすべきで、どんな世界を望むことができるのかが問われているんでしょうね。
古川:論理的に可能な世界といってもいろいろあるわけだから、どんな世界が可能なのか、どれが私たちが向かうべき世界なのかを、どれだけ突きつめて考えられるかが、今後の世界のあり方を決定する。そう考えると、文明社会が大きな岐路に立っている今日ほど、哲学や思想を学んで考えることが決定的に重要な意味をもつ時代はないと言わなければなりませんね。
(構成:市野美怜[大人の教養大学])
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