いだてん「天狗倶楽部」が残したスポーツ遺産 野球、学生相撲、大学応援団の基礎つくる

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当時は慶應義塾大学との「早慶野球戦」が絶大な人気を博したが、過熱した応援のせいで中断したことがあった。それは1勝1敗で迎えた明治39(1906)年の早慶戦、応援席の配分などをめぐって両校の応援団が一触即発の状態になった。このとき、早稲田の応援隊長である吉岡は「指揮官を6頭の馬に乗せ、剣を携え、1万人の応援隊でグラウンドに乗り込む」と慶應を威嚇したが、これがきっかけで両校は修復不可能になり、早慶戦は大正14(1925)年まで中止となった。

「天狗倶楽部」は、ストックホルムオリンピックの代表選手予選が行われた羽田運動場の建設にも携わっている。京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の協力を仰いで完成した総合運動場は現在の東京国際空港(羽田空港)の敷地に完成し、陸上競技用トラックのほかに野球場、テニスコート、遊園地、海水浴場なども設けられた。

創設者死去で活動が下火に

こうして日本にスポーツの文化を広めた「天狗倶楽部」だが、創設者である押川春浪が大正3(1914)年に亡くなると、活動は徐々に下火になっていく。晩年の春浪は飲酒による体調悪化に苦しみ、小笠原の父島で療養したこともあった。明治44(1911)年には教育家の新渡戸稲造らが唱えた「野球害悪論」が新聞紙上に掲載され、論争に勝利したが精神的に疲弊してしまっている。

春浪の死後も「天狗倶楽部」の活動は続いたが、大正6(1917)年には羽田運動場が高潮被害で大破。ナンバー2の中沢臨川も亡くなり、「バンカラ」の象徴だった吉岡信敬も離れ、「天狗倶楽部」はいつしか忘れられた存在になった。

しかし、彼らの志は、さまざまなスポーツ団体やファンクラブ、支援団体などに受け継がれている。そして、明治の世に一世を風靡した「バンカラ」も、大学の応援団などでその姿を見ることができる。「天狗倶楽部」が興したスポーツのムーブメントは確実に今へとつながっているのである。

常井 宏平 編集・ライター

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とこい こうへい / Kouhei Tokoi

1981年茨城県生まれ。中央大学文学部社会学科卒。現在はフリーで活動しており、歴史やタウン系などの記事を執筆している。共著に『沿線格差 首都圏鉄道路線の知られざる通信簿』(SB新書)など。

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