創業後、安達氏がまず着手したのは、多くの絵師や図柄など膨大な数の浮世絵版画から芸術的に優れた作品をえりすぐる作業だ。そして、工房に高い技術を持った彫師と摺師を集め、オリジナルを忠実に再現するために、江戸時代と同じ技法を使って復刻作業を行っていった。
当時、同じように浮世絵の復刻を行っていた企業のなかには、江戸時代の絵師が描いた図柄ではなく、当時の絵師が描いた図柄の版画を作製するところもあった。
だが同社においては、「技術の基本は復刻版で、復刻版がきちんとできなければほかのものは作れない」とのポリシーがあった。
それに加え、彫師と摺師を自社で抱えていたことから、職人の腕を磨くためにも、売れようが売れまいが、ひたすら復刻版の制作に注力することで、江戸時代から続く木版画の技術を確立していった。
東洲斎写楽に特別な思いを抱いていた安達氏は、創業と同時に写楽の完全復刻を手がけ始める。当時、写楽の資料の多くは海外にあったが、地道に資料を集め、戦前には写楽関連の文献のほとんどを網羅していたという。
東京大空襲ですべて失った
そのようななか、最大の危機が同社に訪れることとなる。「第二次世界大戦」だ。東京大空襲により、それまで制作してきた浮世絵の版木をすべて焼失。もちろん写楽関連の文献も例外ではなかった。会社の再建は絶望的とも思われたが、一から復刻活動を再開し、写楽復刻のために再び資料収集を開始した。
そのほかにも、戦災により焦土化した東京およびその周辺では、他社においても印刷機が破壊され、機械によるカラー印刷ができなくなっていた。そこで代わりの印刷技術として、白羽の矢が立てられたのが木版だった。
1946年ごろには、大手化粧品メーカーの香水瓶に貼るシールの制作依頼を受けたほか、1948年ごろには、海外事業を活発化させる大手商社などからの受注で、欧米向けの木版クリスマスカードの制作など、その時代に合うものを見つけてきては積極的に手がけていった。
こうしたなか、同社のターニングポイントとなったのが、2代目の安達以乍牟氏が社長を務めていた1965年ごろ。東山魁夷や平山郁夫、加山又造ら有名な日本画家が木版制作をし始めたことだった。当時、出版社がこうした画家の画集を出版した際、限定で販売される特装本の中に木版画が差し挟まれていた。
技術的な裏付けがあり、かつ量にも対応できる強みから同社が手がけることとなった。浮世絵の復刻にとどまらず、伝統的な木版技術を生かした現代日本画家の木版制作は同社の新たな可能性を示すこととなり、以降、今日まで現代日本画家の木版制作は続けられている。
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