「道徳教育を受けた人は収入が多い」は本当か 「論理的思考」は人為的に教えるしかない理由

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中野:ディシプリンはモラルに基づくものと思いがちだけど、実はモラルと対立するディシプリンもあり、しかも国家がそれを必要とする場合もある。

佐藤:モラルを否定することこそが道徳教育、という逆説は成立するのです。

古川:左翼はディシプリンをすごく嫌うんです。とくに教育学の分野では、左の人ほど個人の内面のモラルをすごく重視する一方、「型」とか「規律」とかといった概念は、ほとんどタブーに等しい。

中野:しかし教育という以上、本当であれば「規律をたたき込むことはやめましょう」とは言えないはずですよ。ディシプリンをなくすというのは教育放棄に等しい。そもそも争い事を禁止して、「みんな話し合いで仲良くしましょう」と強制することもまたディシプリンでしょう。まさに憲法9条は強烈なディシプリンです。

「自立した市民による民主主義」は社会に不可欠か

古川:おっしゃるとおりです。私は基本的に道徳教育は「よき市民」を育てるためにあるものだと考えていますが、市民とはまさにルソーがいうように自ら主体的に国家を担う存在であるわけですから、必然的に国防の義務を負います。だから、ルソーの共和国の理念を最も忠実に体現するのは、スイスのような民兵制、つまりすべての市民が同時に軍人でもあるという制度です。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

そういう意味で、実は学校で子どもたちに軍隊的規律をたたき込むということは、実は極めて民主主義的な考え方なんです。もしそれが問題なのだとすれば、それはむしろ民主主義的すぎるがゆえの問題なのではないでしょうか。

佐藤:古川さんの議論の根底にあるのは、自立した市民による民主主義が近代社会の基盤だという発想ですよね。「市民」より「公民」のほうが近いかもしれない。現に公民教育は、フランス革命の際に始まったはずです。

しかし「自立した市民による民主主義」は、本当に近代社会にとって不可欠なのか。例えば中国は、政治的自由に制約がある状態のままで、21世紀の覇権大国になりつつある。逆に「自立した市民による民主主義」を目指せば、社会が安定するという保証もない。フランス革命など、最終的にはナポレオンの独裁になってしまいました。

学校教科としての道徳は、社会の存立と発展に寄与しなければなりません。それが「学校で教える」ということの意味です。市民の自立を否定し、権威主義や独裁を肯定するような道徳観であったとしても、社会の安定と発展に寄与するとしたら、学校で教えることを否定する根拠はないでしょう。

自民党の新自由主義的道徳観も、この発想のバリエーション。経世済民を達成するうえで、成果を万能と見なす姿勢が不可欠だとするなら、それを是とする道徳観を教えなければという話ですね。

久保田 正志 ライター

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くぼた まさし / Masashi Kubota

1960年東京都品川区生まれ。経済系フリーライターとしてプレジデント社・東洋経済新報社・朝日新聞出版社などで取材・執筆活動を行っている。著書に『価格.com 賢者の買い物』(日刊スポーツ出版)。ペンネームで小説、脚本等フィクション作品も手がけている。

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