「高円寺」で再開発がなかなか進まない背景 カルチャーの街はどのようにして生まれたか

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このような高円寺の街並みはいつ頃生まれたのだろうか。高円寺が栄え始めたのは、大正時代に青梅街道沿いの路面電車(現在の地下鉄丸ノ内線)と国鉄中央線高円寺駅が相次いで開業したことがきっかけだ。それまでは東京郊外の農村で、江戸時代に開かれた寺院「高円寺」から一帯を「高円寺」地区として扱うようになっていった。

1922(大正11)年に国鉄中央線高円寺駅が開業し、その8カ月後に住宅地化を進める目的で高円寺耕地整理組合が設立され、桃園川の流路を直線化するなど宅地化に向けた取り組みが行われ始めた。

しかし、組合設立のわずか半年後、関東大震災が東京を襲った。幸いにして被害は大きくなかったが、高円寺の姿を変貌させるきっかけとなる。

人口が急増した

関東大震災をきっかけに郊外への人口転出の受け皿として、大きく人口を増やしたのだ。増加率は近隣地域で最も高く、1922年に約4000人だった高円寺地区の人口は、3年後の1925年には4倍以上の約1万8000人にまで増えた。転入者の多くは東京都心へ勤める人で、東京出身者が多かったことが当時の資料からわかる。

また、そうした転出者相手に商売をしようとする自営業者も多く移り住み、商店街が大いににぎわうことになった。1930年代には高円寺の商店街が強い集客力を持つようになる。近隣における一大商店街を形成し、1940年頃には隣駅の阿佐ヶ谷はもとより、現在では杉並区内最大の駅である荻窪よりも乗降客数が多かった。

高円寺隆盛の歴史は、第2次世界大戦で一度途切れる。終戦間際の1945年4月の空襲によって高円寺駅周辺は大きな被害に遭い、一面焼け野原となってしまったのだ。そのため1947年には高円寺駅の南北約50haが戦災復興計画に基づく土地区画整理区域に指定され、南北を縦貫する幅18mの道路と桃園川に並行する幅15mの道路の建設、駅前広場の整備などが事業化された。

しかし、この土地区画整理事業はなかなかうまくいかなかった。住民の間でも足並みがそろわず、また駅北側では一部有力者が自分の都合のいいように計画を作ったのではないかという嫌疑も生まれた。とりわけ駅北側では、駅前広場の整備と一部の区画整理にとどまった。南側でも道路の拡幅計画に対して反対運動もあり、商店街の内部が二分されてしまうような事態になった。

そのため、感情的対立のある商店主ではなくその子ども世代の若手によって街を盛り上げようという動きが生まれ、1957年に高円寺「ばか踊り」が企画された。関係者の証言によると、当時、阿佐ヶ谷で行われていた七夕祭りへの対抗意識もあったという。この「ばか踊り」が現在の「東京高円寺阿波おどり」だ。

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