「天皇」の呼び名は日本人の気概を表している 1400年にわたる歴史の大本にあるもの
では、「オオキミ(大王)」や「スメラミコト」が「天皇」となったのはなぜでしょうか。608年、聖徳太子が中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書で「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と記されていました。『日本書紀』に、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で、「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされます。
遣隋使の小野妹子ははるばる海を渡り、隋の都・大興城(現在の西安)へ赴きました。その時、携えていた有名な国書に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)」と書かれていました。この国書に対し、煬帝から返書があり、さらに、その煬帝の返書に対する返書として、日本から送られたのが、上記の「東天皇敬白西皇帝」の国書です。
日本が自らの君主を「天子」や「天皇」と明記して、国書を差し出したことには大きな意味があります。
当時、日本は中国から「倭」と呼ばれ、その君主の称号として「倭王」を授けられていました。中国では、皇帝が最高の君臨者で、その下に複数の王たちがいました。中国の王は皇帝によって、領土を与えられた地方の諸侯にすぎません。つまり、「倭王」は中国皇帝に臣従する諸侯の一人という位置づけだったのです。朝鮮半島諸国の王なども同様の扱いでした。
7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する「王」の称号を避け、「天皇」という新しい君主号をつくり出しました。皇国として、当時の中国に互角に対抗しようという大いなる気概が日本にはあったのです。
国際情勢を的確に把握していた首脳部
日本が中国と対等であることを国際的に宣布することは戦略的にも重要でした。当時、日本は朝鮮半島南部を服属させていました。現在の韓国の大半部は日本の一部だったのです。「広開土王碑」によると、日本は391年、百済を服属させ、新羅と百済は王子を日本に人質に差し出していました。
『日本書紀』の雄略紀や欽明紀では、日本が任那をはじめ伽耶(かや)を統治していたことが記されています。ここで言う伽耶は朝鮮南部の広域地域を指す呼び名です。『日本書紀』は、日本が朝鮮半島を支配した証拠や根拠となる史実を論証することを編纂の目的の1つとしていました。
中国の史書『宋書』の中の「夷蛮伝」では、倭の五王の朝鮮半島への進出について、記述されています。
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