「天皇」の呼び名は日本人の気概を表している 1400年にわたる歴史の大本にあるもの

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「皇」は王と同じ意味ですが、王の上に、光輝くという意味の「白」が付いています。つまり、「皇」は「王」よりも格上の称号です。

「帝」は束ねるという意味があり、統治者を指す言葉です。糸偏をつけた「締」は文字どおり、糸を束ねるという意味です。したがって「皇帝」とは「世界を束ねる光輝く王」という意味になります。始皇帝は、自らが伝説の聖人をしのぐ最高存在であることを示そうとしました。

煬帝の「2つの返書」の真偽

このように最高の存在とされた皇帝ですから、隋の皇帝・煬帝は日本の国書「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」で、日本の君主が「天子」と名乗ったことに、立腹したとされるのもうなずけます。興味深いのは、その手紙への返書です。『日本書紀』によると、その返書には、日本の君主を「倭皇」とすることが記されていたとされます。「倭王」という臣下扱いではなく、対等の「倭皇」と表記されていたというのです。

しかし、不自然な点もあります。煬帝の返書を受け取った小野妹子は、それを朝鮮の百済で盗まれて紛失してしまったと言っています。ところが小野妹子に同行して日本に来訪した中国側の使節・裴世清(はいせいせい)も、煬帝の返書を携えていました。裴世清の持っていた返書は盗まれることはなく、無事に日本に差し出されました。その差し出された返書に「倭皇」と記されていた、と『日本書紀』は伝えています。つまり、煬帝は小野妹子と裴世清の2人に、2つの返書を持たせていたことになります。

この不可解な話について、さまざまな解釈があります。煬帝の返書は実際には、日本を臣下扱いするものであったため、小野妹子が返書を破棄したという説などです。中国皇帝が当時の日本君主を「王」ではなく、「皇」としてすんなりと認めたと考えるのには無理があるだろうとする諸説が根強くあります。

いずれにしても、君主の称号は日本の国際的な立ち位置を決定するうえで極めて重要なものであり、『日本書紀』などの史書も、そのことを強く意識し、「天皇」の称号について記録しています。

「天皇」は英語で「エンペラー(emperor)」、つまり「皇帝」ですが、その称号の誕生の歴史的背景を鑑みれば、本来、「エンペラー」とは異なるものであり、やはり天皇は「天皇」としか言い表せない存在なのです。

宇山 卓栄 著作家

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うやま・たくえい / Takuei Uyama

1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、著作家に。各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説。著書に『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』、『韓国暴政史 「文在寅」現象を生む民族と社会』、『経済で読み解く世界史』(以上、扶桑社)、『民族で読み解く世界史』、『王室で読み解く世界史』(以上、日本実業出版社)、『世界史で読み解く天皇ブランド』(悟空出版)、『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社)など、その他著書多数。

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