ヒロシさんは、熊本県荒尾市に生まれた。荒尾市は20世紀前半に炭鉱の街として栄えた街だった。ただヒロシさんが生まれた20世紀後半は、炭鉱が閉山になっていく衰退の時代だった。
「父親も炭鉱作業員でガツンガツンとやっていました。とても教育熱心な人でした」
父親には学歴がなく、肉体労働しか選択肢がなかった。息子には大学を卒業して、いい会社に入って安泰な人生を送ってほしいと願っていた。
ヒロシさんも父親の意思には逆らわず、キチンと勉強するまじめな子どもだった。
「でも小学校の頃から人となじめなかったですね。正月とかに親戚が家に集まると、居間には行きたくなかったです。普段会わない人と何をしゃべっていいかわからないんですよ。
標準語をしゃべる神奈川のいとことかに対して、劣等感を抱いてもいました」
小学校時代に漫才ブームが訪れた。中でもツービートの漫才が大好きだった。その時はじめて
「お笑い芸人という仕事があるんだ」
と気づき、あこがれを持ちはじめた。
イジメに遭って気づいたこと
「小学校の時に転校したんですが、転校先でイジメに遭ったんです。月に1回『誕生月の人を祝う会』というのがあったんですが、みんな歌を歌ったり、花輪を作ったりしていました。僕はドリフターズのマネをしたんですね。そうしたらすごくウケて、イジメが少し収まっていったんです。
『そうか、笑わせればいいんだ』
って気がつきました。そこが原点ですね」
ヒロシさん自身は、中学を卒業したら即お笑い芸人になろうと考えていた。「なんにせよ早いほうがいいだろう」と思っていたからだ。
ただ、進学してほしいと願う父親に逆らってまで、お笑いの道に進むことはできなかった。高校の成績もよく、学校推薦で九州産業大学の商学部に進学した。
「僕はやっぱり『普通の人』なんですよね。芸人になりたいとは思っていたけど、それでも普通に就職して、普通に生きていくんだろうな、と感じていました」
そしてそのとおりに、大学卒業後は保険会社に就職した。
「営業の部署だったんですけど、地獄でした。会社でも誰とも話せないし、どうしていいかもわからない。毎日つらくて、そのうちつらさが身体に出るようになりました」
朝起きると頭痛が出るようになった。会社が休みの日には出ないので、精神的なものなのだろう。
1カ月で、会社に行かなくなった。
「ある日家で起きたら、支店長が枕元に立ってました。そして『もうちょっと続けなさい』って言われました」
「少しは契約を取ってこい」と言われ、親類縁者に入ってもらって契約を取った。結局、半年間我慢して働いて会社を辞めた。
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