日産に追放された「辣腕経営者」ゴーンの功罪 危機から復活遂げたが社内には不満も募った
「リバイバルプラン」では、村山工場(東京都東村山市)や日産車体京都工場(京都府宇治市)など5工場閉鎖やグループ従業員の14%に当たる2万1000人の削減を決めた。同時にコストの6割を占める部品調達では購入先を1415社から600社へ絞り込んだ。航空宇宙部門など本業以外の事業も売却した。総額1兆円のコスト削減を目指した。その規模や大胆さ、波及効果の大きさからどれもセンセーショナルなものだったが、ゴーンの指導の下、CFTのメンバーである日本人社員が生き残りをかけて振り絞った「知恵」の結集でもあった。
次にゴーンが定着させたのは「コミットメント(必達目標)」という概念だった。言ってしまえば、ノルマである。リバイバルプランでは、ゴーンは「3つのコミットメント」を掲げた。2001年3月期までの黒字化、2003年3月期までに営業利益率4.5%の達成と有利子負債の50%削減である。ゴーンは「黒字化できなかったら責任を取って退任する」と宣言した。結果責任を取るという意味である。
「コミットメント」と「系列破壊」の衝撃も
この「コミットメント」という言葉は、当時の日本の経営者には衝撃的だった。株式の持ち合いにより、株主からの「規律」が働きにくかった日本企業の経営は「ぬるま湯」になりがちで経営責任は大きな不祥事でも起きない限り、棚上げにされる風土があったからだ。
3つ目が「系列破壊」だった。「系列」が日産の天下り先となり、甘えの構造の温床であった以上、過去の経緯と関係なく破壊すべきとゴーンは判断したのだ。かつてのメインバンクとの株式持ち合いも解消した。事業売却もすさまじい勢いで進め、ゴーンは「コストカッター」の異名をとるようになった。当時の事業売却を時系列で示すと以下の通りだ。
「リバイバルプラン」発表から1年後の2000年10月30日、ゴーンが記者会見し、2001年3月期決算の通期業績見通しで当期純利益が過去最高の2500億円になると発表した。過去最高益の要因は北米での販売増やコスト削減による効果だった。「リバイバルプラン」の効果が即効薬として表れたのだ。前年に巨額の引当金を積めば、翌年はV字回復しやすくなるという財務テクニックがあることも後にわかったが、倒産寸前だった会社がわずか2年後に最高益をひねり出すとは驚き以外の何物でもなかった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら