西郷隆盛と大久保利通が決別した本当の理由 「征韓論」をめぐる対立だけが原因ではない

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上野の議案提出を受けて、政府の面々は激昂した。というのも、朝鮮には「大中華の文明を吸収したわれわれは日本よりも上位にある」という小中華思想があり、開国して西洋の文化・文明を受け入れた日本人をさげすんでいたからだ。ついには、釜山の日本公館の門前に「日本人は西洋の猿まねをする恥ずべき人間だ」という文書まで掲げられた。

閣議では参議の板垣退助が「朝鮮にいる居留民を守るため、朝鮮に出兵すべき」と強硬に主張し、他の参議もこれに同調した。ところが西郷は朝鮮派兵に反対し、自分を全権大使とする使節団の派遣を主張する。議論の結果、西郷を遣韓大使とすることが8月17日に閣議決定され、岩倉ら使節団の帰国を待って正式決定することにした。

外交によって朝鮮との関係を構築しようとしていた

従来は、「自分が朝鮮で殺されれば、心置きなく朝鮮に派兵できると考えた西郷が、使節として自ら朝鮮に乗り込むことを主張した」というのが一般的な定説だった。しかし、実際は武力で朝鮮を征する考えは西郷の頭になく、むしろ平和的なやり方での国交回復を望んでいたようだ。ちなみに、征韓論というのはこのとき初めて出てきたわけではなく、明治初年には木戸孝允も唱えている。幕末から明治にかけて、日本は欧米列強や清国と国交を結び、同様に朝鮮とも国交を結ぼうとした。ところが、朝鮮は依然として鎖国体制を続けようとするので、「こうなったら武力をもって朝鮮を征するしかない」という征韓の考えが何度も出てきたのである。

西郷が明治政府の名目上の首班である太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書には、次のような内容が記されている。

「かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もしかの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」

西郷が乱暴な手段を好まず、外交によって朝鮮との関係を構築しようとしたのは、上記の意見書の要約を見れば明らかだ。

しかし、盟友・大久保利通の考えは異なっていた。当時の朝鮮政府を仕切っていた大院君(朝鮮国王・高宗の実父)は日本を毛嫌いしており、西郷が行けば殺される可能性があると危惧していた。

仮に殺されなくても、交渉が物別れに終われば戦争に発展するおそれもある。岩倉使節団として欧米列強の国力を直接目の当たりにした大久保は、「日本を強国にするには、まずは国力の充実が最優先である」と考えていた。

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