新生「森保ジャパン」の躍動で見た主将の役割 伝道師・青山を中心に若手をどう融合するか

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この手法は2006年ドイツワールドカップの直後に代表の立て直しを託されたイビチャ・オシム監督によく似ている。

オシム監督もそれまでの代表けん引してきた宮本恒靖(ガンバ大阪監督)や小野伸二(コンサドーレ札幌)ら20代後半以降のメンバーを大胆に外し、遠藤保仁(ガンバ大阪)ら限られた一部の同世代だけを残したうえで、当時20代前半だった阿部勇樹(浦和レッズ)や田中マルクス闘莉王(J2・京都サンガ)、佐藤寿人(名古屋グランパス)ら2004年アテネ五輪世代の面々を抜擢。

彼ら国内組でまず土台を作り、当時欧州でプレーしていた中村俊輔(ジュビロ磐田)や高原直泰(九州リーグ1部=沖縄SV)らを後から組み込む形を採った。この時、引き上げられた阿部や闘莉王が2010年南アフリカワールドカップ16強入りの原動力になったのだから、思い切った若返りの成果は出たと言っていい。

日本人の森保監督はこうした日本代表の歴史と流れを熟知しているから、オシム流に学んだ部分も少なからずあったはずだ。

森保監督にとっての秘蔵っ子・青山敏弘

もう1つ、オシム流で参考にしたと見られるのが、自身がクラブで教えた秘蔵っ子を中核に据えること。オシムの時は阿部であり、森保監督にとっては青山敏弘(サンフレッチェ広島)だ。

青山は森保監督が広島を率いて、2012・2013・2015年にJ1制覇した時の不動のボランチで、2014年からはキャプテンも務め、2015年にはJリーグMVPにも輝いている。

長谷部誠の後継者として背番号17のキャプテンに就任した青山敏弘(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

「本人には『キャプテンをやって欲しい』と伝えた。同時に『普段オフ・ザ・ピッチ、オン・ザ・ピッチとやっていることをいつも通りの姿勢を示してもらえればいい』ということも言いました。

彼は1人の選手として自分のプレーをしっかりとやる。それを見せるために最善の準備をする。その大切さをチームに伝えられる」と指揮官も青山との強固な信頼関係を口にしたが、自身のサッカーに対する姿勢や戦術面をピッチで体現してくれる人間を置くことで、早くチーム作りが進むというメリットは確実にあるはずだ。

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