43歳で旅立った障害者の兄との「微妙な関係」 愛情と暴力が共存していた
大学院の教員から、私はラッキーな少女だったと言われたことを思い出す。「あなたのお兄さんは特別。彼がいてあなたはラッキーですね。ほかのどんな兄弟にもできないことを彼はあなたに教えてくれるでしょう」。当時はその言葉に傷ついた。ラッキーですって? アランの妹であることを私はアンラッキーだと感じていた。
今思えば、その教員は正しかった。アランは私に、人間は完全ではなく、弱いものだということを教えてくれた。アランに接する人々を見て、世界にはとてつもない優しさや想像できないほどの残酷さがあると知った。アランのおかげで私は忍耐、共感する心、交渉力、成熟さ、そして思いやりを得た。
きょうだいというのは、結局はライバル
アランは私を悩ます人だったが、私の兄でもあった。兄に対する私の深い愛情が、彼の暴力を打ち消すことはなかったが、彼の暴力が愛情を打ち消すこともなかった。その2つが同時に存在することは可能なのだ。
私も親になり、ほかの家族を知るようになったことで、きょうだいというのはどんなにいい関係でも親の愛情や時間、支持を得ようと争うライバルなのだと思うようになった。
アランと私の関係は複雑で、極端で、多くの家族の中にもある相反する感情をはらんでいた。私は誰もがきょうだいを亡くしたときに悲しむのと同じように、兄の死を悲しんだ。なぜなら、ある面においては私たちも普通のきょうだいだったからだ。
(執筆:Gina Demillo Wagner記者、翻訳:中丸碧)
(C)2018 The New York Times News Services
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