脱北者の元作家が送る波乱万丈すぎる人生 日本で生まれ海を渡り「党員」になった末に

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「生まれは日本の関西地方でした。おじいちゃんが朝鮮総連で委員長をやってる家柄で、幼稚園から朝鮮学校に通ってました」

朝鮮学校では、北朝鮮という言い方はしない。朝鮮民主主義人民共和国であり、偉大なる『祖国』だ。

「当時は韓国に対しては馬鹿にした感情がありましたね。韓国はアメリカの侵略地、植民地だって教えられていました。

日本に対して反感はなかったです。日本の文化に染まっていましたから。天才バカボンとかデビルマン、仮面ライダーなんかが大好きでした。ただ、日本人の子どもたちにいじめられたことはあり、個人的に恨みに思っていたことはありました」

一方で周りにいる大人たちは、

「日本では在日朝鮮人は差別される。普通の仕事をするのは難しい」

と口にしていた。

実際、金さんの父親もまっとうな生き方をしている人ではなかった。母親は金さんが小さい頃に家を出ていってしまっていた。

「お父さんは人生の裏街道を行くヤクザ的な人でした。ただ可愛がってはくれました」

父親は優しくしてくれたし、金さんも父親のことは好きだったが、たまに気が狂ったように暴れた。突然出刃包丁を振り回すこともあったという。

そのため、小学校3年生のときには、岡山県にある叔父の家に籍を移した。叔父叔母からは、

「私たちがお父さんお母さんですよ。お父さんのことは忘れなさい」

と言われ、2年くらい一緒に住んだ。

平穏で幸せな日々だった。

「ある日突然、父親から帰ってこいと言われました。父親は再婚してちゃんとした生活をしているから、と。もちろん、おじおばは反対しましたが、最後は祖父が私を連れ戻しに来て、結局帰ることになりました」

父の再婚相手はお金にゆとりがある人だった。実家はリフォームされてきれいになっていた。下着は高級品でお小遣いも何千円もくれ、学生服も良い生地であつらえてくれた。

父親は相変わらずたまに暴れたが、そんなときは継母と一緒に家出をした。金さんは生まれてこの方知らなかった、母親という存在を得られてうれしかったという。

祖父祖母と共に北朝鮮へ

それなりに幸せな日々だったが、中学2年のとき、祖父と祖母が北朝鮮に帰ることになった。祖父は金さんを

「祖国へ連れていって幸せにする」

と断言した。

父親、継母はもちろん大反対だった。父親は怒鳴るし、継母は泣いて行かないでくれと頼んだが、結局は祖父祖母と共に北朝鮮に行くことになった。

「私の泣き所はおばあちゃんでしたね。母乳を飲む時期から、おばあちゃんがずっと育ててくれたので。おばあちゃんに行こうって言われたら、行くしかなかったんです」

そして金さんは中学2年のとき、万景峰号(マンギョンボンゴウ)に乗って、北朝鮮に移住した。

帰国した後も、継母は金さんの成長を見計らって洋服やプラモデルなどなど、よく荷物を送ってくれた。

「すごい愛ですよね。一度、エレキギターを送ってくれたこともありました。北朝鮮にエレキギターが何台もない時代です。秘密警察に『なんだこれは?』って言われて。結局、軍団司令部傘下の芸術宣伝隊という楽団に寄付することになりました。代わりにお米とかをもらってね。

ただ、それから4~5年経って父と離婚した継母とは、それきりになってます。もしもう一度会えるならば、お礼を言いたいです」

北朝鮮に帰国してすぐ、祖父がガンで亡くなってしまった。金さんと祖母は、父のおじの家で生活することになった。

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