ナイキ創業者「日本人は挑戦できる人たちだ」 フィル・ナイトが「日本を熱烈に愛する」理由
「会議室で、私たちは靴についてたくさんのことを話しました。私はオニツカの靴をアメリカで売りたい。彼らからも、アメリカに輸出したいという考えを聞きました。2つの考えが合致した瞬間です。その一方で、彼らは私のことを若く繊細だとみていたでしょうが、私たちは靴についてよく知る間柄でした。とても和やかな議論の中で、私はサンプルをオーダーすることにこぎ着けたのです。すべての交渉が、そのときにまとまりました」
その後、300足のオニツカのスポーツシューズを発注し、アメリカの西部13州での販売を許された。ただし、そのビジネスは自転車操業そのものだったという。
「信じていました。日本のスポーツシューズの販売はうまくいくと。売り上げのすべてにくわえて、会計士の仕事で得た給料までも、靴の仕入れにつぎ込んでいました。私は大学院を修了しても、人生で何をしたいのかはっきりしていませんでした。しかしスポーツシューズの販売が理想だ、という完全なる確信があったのです。ビジネスを成立させ、自分や家族の支えとなることを望んでいました」
ナイト氏のブルーリボンは、2度、資金繰りで窮地に追い込まれることになる。その危機を救ったのが、日商岩井だ。なぜ日本の商社に頼ることになったのか、その経緯を次のように語った。
「売り上げや自分の給料をすべてつぎ込まなければならなかった理由は、当時、ベンチャーキャピタルのような存在がなかったからです。銀行を説得するには時間がかかりましたが、日商岩井を説得するのは、それほど難しいことではありませんでした。彼らは私たちの会社が急成長していること、そして利益の伸びが良好であると判断し、熱心に話を進めました。彼らは、私たちに100万ドルの融資を提供し、私たちはそれをオニツカからの靴の輸入に充てたのです」
ナイト氏は、1970年代の日本の商社が、ブルーリボンにとってのベンチャーキャピタルのような振る舞いをし、成長するビジネスを資金面で支える投資家のような役割を担ったことをふりかえる。しかしこれも、勉強家のナイト氏は予見していたことだった。
「『フォーチュン』誌の記事で、『日本株式会社』の成り立ちについて読んだ際の重要な箇所は、日本の商社が世界中のあらゆる市場で非常にアグレッシブだということでした。日商岩井も、私に非常に熱心で積極的だったのです」
日商岩井の皇孝之氏は、ナイト氏のことを真剣で熱心と評している。しかしむしろ皇氏の方が、アグレッシブだったと、ナイト氏はふりかえる。
「皇さんがいなかったら、ナイキは存在していなかったでしょう。ビジネスは彼のおかげで好転しました」
2度目にナイト氏を救ったアイスマン
ナイト氏が書いた『SHOE DOG』に登場する日本人の中で「アイスマン」の異名を取るのが伊藤忠幸氏だ。カリフォルニア銀行から口座を凍結され、資金繰りの改善を求められたナイト氏が頼ったのが、日商岩井ポートランド支店の会計を担当する伊藤氏だった。
伊藤氏はナイト氏の窮地を救うため、あらゆることを明らかにしてほしいと望み、会計帳簿まで差し出させたという。なぜそれに、ナイト氏は応じたのか。
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