ナイキ創業者「日本人は挑戦できる人たちだ」 フィル・ナイトが「日本を熱烈に愛する」理由

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『SHOE DOG』はナイキの創業物語だ。日本ではすでに20万部を突破したベストセラーとなった。ナイト氏にとって、この本が日本で多くの人々に受け入れられたことには特別な意味がある。

「人口が3倍もいるアメリカでは40万部です。そう考えると、より多くの人々に関心を持ってもらえてとてもうれしいです。ナイキのストーリーの始まりには、日本が深く関わっていましたから」

そう顔をほころばせる。ナイキの前身となったブルーリボンスポーツ(Blue Ribbon Sports)という会社名は、1962年にオニツカ(現・アシックス)の靴を輸入してアメリカで販売しようと交渉のために日本を訪れた際、口をついて出た企業名だった。

そのブルーリボンの窮地を救い、また自社開発のシューズの発売にこぎ着けた背景には、日商岩井(現・双日)ポートランド支店の尽力があった。さまざまなストーリーのきっかけに日本があったとふりかえる。

『SHOE DOG』には1980年、つまりナイキの株式上場までが綴られている。その理由について、ナイト氏はこう明かした。

「はじめは、ナイキの40年の歴史を網羅しようと思っていました。ですが400ページの本では、細かい出来事を書き表すことはできません。皆さんに本当に知ってほしかったのは、初期の話です。

1980年に株式公開をして以降のことは、多くの人が知っているでしょう。でもシューズ業界の外の人には、ジェフ・ジョンソンさん、ボブ・ウッデルさん、皇孝之(すめらぎ・たかゆき)さん、伊藤忠幸(いとう・ただゆき)さんのことは知られていない。彼らがどんな活躍をしたかを書くべきだと思ったのです」

本社内に飾ってあった旗には、日商岩井社員の名前が書いてあった。左は当時の日商岩井社長、後に日銀総裁となった速水優氏。右は皇孝之氏(筆者撮影)

学生時代から注目した日本

フィル・ナイト氏は大学院を修了して間もない1962年に日本を訪れ、スポーツシューズを輸入し、販売を始めた。その後自社開発を行い、今日のナイキの成立へと歩んできた。しかしなぜ、日本に注目したのだろうか。

「私はスタンフォード大学ビジネススクールの論文で、日本のカメラがドイツのカメラより売れるのなら、日本のスポーツシューズも、ドイツのスポーツシューズのように売れるのではないか、と書きました。当時、アメリカや世界の市場ではドイツのプーマやアディダスが市場を独占していましたが、日本製のシューズが売れると考えたのです。そこで東京で靴屋を回り、オニツカの靴が一番だと知り、彼らに連絡しました」

オニツカとの交渉でも、ナイト氏はスポーツシューズへの深い造詣を披露し、共感を得ていく。

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