若者は「今上陛下の平和への思い」を忖度せよ ご高齢をおして「慰霊の旅」を続けた理由

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私は今上陛下に2度お会いしている。1度目は大使として中国に赴くとき、2度目は大使の役目を終え帰国したときである。私の個人的な陛下の印象を述べることは慎むべきだが、国際情勢についても相当深く、広く勉強しておられていた。私心など微塵もなく、常に国民と国のことを考えておられ、日本の平和が一歩でも二歩でも進むことを強く望まれていたと思う。

陛下は皇太子時代に、昭和天皇の名代として戦後はじめて沖縄を訪れている。皇太子妃とともに皇室としては戦後初の沖縄訪問だ。このときは昭和天皇のお言葉を沖縄の人々に語りかけた。沖縄戦では、実に沖縄県民の4人に1人が犠牲となったといわれる。

昭和天皇は戦後、象徴天皇としてご発言を控え続けておられた。しかし、近くにおられた今上陛下には、その寡黙なお姿の内にある思いが伝わったのではないだろうか。その思いを、沖縄の人々に語り掛けたのであろう。

陛下が、ご高齢をおして慰霊の旅に出られる姿を見るたびに心を打たれる。陛下は皇后陛下とともに、機会あるごとに日本全国のみならず、海外の戦場跡にも足を運ばれた。宮内庁がホームページ上に記載している、ご即位からの慰霊の旅の記録がある。慰霊の旅は、日本国内で行っていないところがない。

両陛下は、このほかにも1992年には中国も訪問されている。しかし、戦没者の慰霊はできなかった。まだ、日中双方にそれだけの準備ができていないということである。いまでも日本人が慰霊を目的に中国を訪れることはできない。残念なことである。

戦争を知る天皇陛下

慰霊の旅では、戦後60年にはサイパン島、戦後70年にはパラオ共和国、翌年にはフィリピン共和国と海外へも向かわれた。

サイパン島に向かわれるときも、パラオ共和国、フィリピン共和国へ向かわれるときも、現地で亡くなった日本人犠牲者のみならず、米軍兵士や現地住民の犠牲者の慰霊についても必ず言及し、追悼の意を述べておられる。とりわけ目を引くのがフィリピン行幸のときのお言葉だ。

「この度、フィリピン国大統領閣下からの御招待により、皇后と共に、同国を訪問いたします。

私どもは、ガルシア大統領が国賓として日本を御訪問になったことに対する答訪として、昭和37年、昭和天皇の名代として、フィリピンを訪問いたしました。それから54年、日・フィリピン国交正常化60周年に当たり、皇后と共に再び同国を訪れることをうれしく、感慨深く思っております。

フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。

旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます。(後略)」

ここで陛下が言及されている「中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」とは、日本軍による「マニラ大虐殺」のことである。マニラ大虐殺とは、大戦末期にマニラ市街で起きた日本軍による虐殺事件のことをいう。フィリピン民間人の死亡者は約10万人といわれる。

今日、日本ではマニラ大虐殺を歴史的事実として知っている者さえ多くない。だが、今上陛下はきちんと認識し、そのうえで慰霊の旅へ出発されたのである。

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