日本の「いじめ対策」決定的に欠けている視点 環境整備と学校以外の選択肢拡充が必要だ
文科省の統計では、いじめや友人関係による児童の自殺は、毎年十数件から数十件程度、発生しています。この報告が過小報告だとして、15歳までの自殺率全体に目を向けても、おおむね横ばいをたどっています。他方で、不登校者の数は、年間で10万人以上にものぼります。「不登校生徒に関する追跡調査報告書」(文部科学省、平成26)によれば、不登校経験者に不登校になった理由を尋ねるアンケートを行ったところ、いじめを含む友人関係がきっかけとなって不登校に至ったと答えた者の割合が、52.9%となっています。
つまりは、コメンテーターに言われるまでもなく、すでに多くの児童が、いじめなどの人間関係によるトラブルから逃れる手段として、「死ぬくらいなら学校に行かない」ことを選択させられているというのが実情なのです。
「教育オプションが充実している社会」は大賛成
私は、「学校から逃げてもいい社会」、より丁寧に表現すれば「〈学校以外〉の教育オプションが充実している社会」を実現することには大賛成です。しかし、安易に「学校から逃げてもいい」と言ったとき、多くの視点が抜け落ちていることを危惧しています。
まず大前提として、私たちはすべての児童が安心して教育を受ける権利を満たさなくてはならず、そのために、主要な教育の場となっている学校を安全・安心な環境にする努力をしなければなりません。しかし、「学校に行かなくてもいい」という意見ばかりが強調されると、そうした具体的な学校改善の議論を成熟させることができません。
また、他の選択肢が脆弱な状態で「学校に行かなくてもいい」とだけ伝えると、問題が個人化・矮小化されてしまいます。学校に行かないとその児童が選択した時点で、この社会では教育が「自己責任化」されてしまうのです。2016年に、私がEテレ「ハートネットTV」と行った調査があります。
不登校当事者の家庭444世帯にアンケートを行ったところ、世帯年収によって、家庭学習にかけられる金額に大きな開きがあることがわかりました。他方、その教育費の占める割合は、所得が低い世帯ほど高い。つまり、家庭教育費の「痛み」が大きいこともわかったのです。
学校というのは、憲法に定められた公教育を実現するための一手段です。どの家庭に生まれても、教育を受ける権利が子どもたちにはあります。今はその主たる手段が「学校に通うこと」となっています。その学校に行かないとなれば、当然ながら、家庭の経済格差がダイレクトに子どもに影響しやすくなります。
「学校に行かないなら、他の選択肢を自己責任・家庭責任で選べ」というのが、残念ながら現在の社会です。その結果、貧富の差によって、教育にかけられる支出が変わり、その影響が大きく現れやすくなります。だから私たちは、「ご機嫌な教室を増やそう」という議論と、「学校以外の選択肢を拡充しよう」という議論の、両方を同時に行わなくてはならないのです。
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