京都や横浜も原爆投下の有力候補地だった 東京湾や川崎もリストアップされていた
グローブス少将の著書『Now It Can Be Told: The Story Of The Manhattan Project』によると、天候が許せば、1945年8月3日以降、できるだけ早く原爆を投下することになっていた。1945年8月2日に出された最終的な野戦命令で、攻撃日を8月6日とし、広島が第1目標、小倉が第2目標、長崎が第3目標と指定された。
なぜ広島は第1目標になっていたのか。その理由として、グローブス少将は広島が軍都であり、広島城本丸には約2万5000人を抱える大日本帝国陸軍第5師団の司令部があったこと、広島には本州と九州を結ぶ物流の拠点となる重要港があったこと、広島が空襲の被害を受けていなかったことなどを挙げている。歴史的に、第5師団に所属する部隊は、日清戦争、義和団事件、日露戦争、青島出兵、シベリア出兵、日中戦争に出動するなど、近代戦争に深く関わってきた。
広島には捕虜収容所がなかった
志賀館長はこれらの理由に加え、広島には捕虜収容所がなかった点も挙げている。
広島への原爆投下から3日後の8月9日。原爆「ファットマン」を搭載したB29爆撃機の当初の目標は小倉だったが、視界が悪いために変更し、長崎へ向かった。長崎への原爆投下では約7万4000人が死亡した。
アメリカが原爆投下を正当化する理由として、①日本を早期降伏に追い込み、アメリカ人の犠牲を少なくする必要があった②ドイツ降伏から3カ月以内に対日参戦することを米英ソがヤルタ会談で「密約」していたなか、戦後の日本の占領での支配権を得るため、原爆投下でソ連を牽制した③実戦で原爆の威力を図るため――といった点がしばしば指摘されている。
しかし、原爆投下の正当性に疑問を呈する学者はアメリカでも多い。特に2発目の長崎への投下は、日本がすでに戦争続行能力を失っていたことから不必要だったとの見方が根強い。スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授(歴史学)が、当時のアメリカ政府の判断に批判的な見解をとる学者の代表格だ。
筆者が2002年から2003年にかけて留学した米コロンビア大学の国際公共政策大学院(SIPA)の国際関係の授業でも、アメリカによる原爆投下が議論になったが、当時でも、アメリカ人の学生の半数ほどが「長崎への原爆が不必要だった」との認識を抱いていた。使用していたテキストでも「長崎の原爆投下をめぐっては議論がある」と紹介されていた。
原爆はなぜ投下されたのか。人や建物、環境に莫大な被害をもたらし、主戦派が居残る日本軍指導部らに心理的なショックを与え、降伏を早めさせる目的も確かにあっただろう。しかし、ウラン爆弾(広島型)とプルトニウム爆弾(長崎型)の投下は、ともに原爆の威力をあらゆる面ではかる大規模な実験だった可能性が否定できない。
また、日本はなぜ原爆2発を受けるはめになったのか。たとえば、アメリカの原爆の投下命令が下された日の翌日となる1945年7月26日には日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表されたが、日本政府はこれを受諾しなかったため原爆投下は確実なものとなった。
世界唯一の被爆国として、北朝鮮をはじめ、世界の非核化を追い求めるのであれば、原爆被害の惨状のみならず、原爆投下に至った原因と責任、回避可能だった策をしっかりと究明し、次世代へと伝えていかなくてはいけないだろう。
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