北朝鮮で「英語ができる人」が重宝される理由 政府のプロパガンダとは裏腹に…
1970〜1980年代には、旧ソビエト連邦の理髪店に通う客にはちょっとした娯楽があった。順番待ちをしているときに、カラーで印刷された北朝鮮のプロパガンダ雑誌『コリア・トゥデイ』を眺めることだ。この雑誌はソ連に広く行きわたっていたが、どういうわけか理髪店に置かれていることが多かった。
この雑誌が特に面白かったのは、「偉大なる将軍様」がその場で次々と指示を出す様子が報じられていたからではない。
ロシア語の翻訳が笑えたのだ。「偉大なる指導者、金日成主席は豚の世話をする女性たちの胸をなで、女性たちは涙した」(「心」を「胸」と誤訳した例)とか、「敬愛する将軍様は北朝鮮の子ども全員の父である」といった一節は、ソ連の人々の間で卑猥なジョークのネタになっていた。
通訳者は海外にも精通していた
筆者がウラジオストクにある極東連邦大学の学生だった1980年代には、北朝鮮からの翻訳ものプロパガンダがほかにもたくさん手に入った。こうしたプロパガンダを見て、私はいつもけたけたと笑っていた。爆笑してしまうこともあったが、面白かったのは言葉遣いだけではない。話題の選択も、なかなかのものだった。
北朝鮮の通訳者と個人的に接する機会がなければ、北朝鮮の人々は単に海外について無知なだけだ、と決めつけてしまっていたかもしれない。だが、北朝鮮からやって来たプロの通訳者は外国語を流暢に操るだけでなく、海外の事情にも驚くほど通じていた。
問題は、北朝鮮にはこのような外国語の専門家がほとんどいなかったことだ。外国語のプロは誰もが平壌外国語大学のようなエリート大学の卒業生で、その知識や能力は大切に使われるべきものだった。海外向けのプロパガンダを大量に制作するのは、こうしたエリートのする仕事ではなかった。
筆者は北朝鮮の映画を研究対象にしているが、北朝鮮映画の知識が増えるにつれて、北朝鮮のエリートは実は海外の文化に通暁していたのだ、と確信するようになった。「祖国に根ざし、世界に目を向けよ」というのが最高指導者の訓示だった。北朝鮮の映画監督は、このような教えに従い、海外作品のテクニックやパターンを模倣し、北朝鮮の現実に合うようにイデオロギー的な修正を加えていた。ソ連の映画スタジオ「モスフィルム」や米国のハリウッド、インドのボリウッド、香港のショウ・ブラザーズなどが、北朝鮮映画のインスピレーションの源だった。
だが、このような映画づくりが通用したのは、海外の映画に通じている国民がほとんどいなかったからだ。洋画を見られる社会階層に属する国民はごくわずかであり、北朝鮮では選ばれたエリートだけが映画制作に携わっていた。映画を見る側の国民にとって海外が完全に未知の世界だったからこそ、海外作品から影響を受けていても、その痕跡を容易に隠すことができたのだ。