では、白熱した試合を観たい純真な観客の期待はどうしてくれるのか。ここが次の論点で、これを考察するには、若干の動物行動学的考察が必要である。
スポーツの見物には、「応援型」と「観戦型」がある。応援型の典型がサッカーあるいはバレーボールである。観戦型は、ゴルフやテニスが良い例で、両者の中間に属するものも各種ある。応援型スポーツと観戦型スポーツ、両者の違いは何か。
観戦型のゴルフであれば、ライバルの選手が見事なショットを放ったら、その結果、仮にひいきの選手の優勝が遠のいたとしても、惜しみない拍手を送るのが文化である。かなり以前、日本のファンが外国選手のボギーに喜んで拍手し、物議を醸したが、これは正統なゴルフ観戦のあり方とは認められない。テニスでも、ファインプレーに対し敵味方を問わず満場の拍手が起こることが珍しくない。
だが、応援型スポーツのサッカーでは、そうはいかない。相手チームの華麗な得点に「敵ながら天晴れ」などと拍手を送る者はあるまい。応援型スポーツ、とりわけサッカーは、擬似的な「ムラの争い」を象徴している。戦争という言葉はスポーツに適切ではないが、サッカーやアメフトに、我々の本能に埋め込まれた集団間の争いを表象する要素があるのは事実である。こうした集団の闘争心を掻き立てるスポーツは、どうしても勝ちたい、あるいは観客としても勝って欲しい、という気持ちが強く働く。
「応援型」スポーツに期待される「勝利」と「ドラマ」
この結果、サッカーの観客の多くは、単なる観戦者ではなく、応援者である。中でも国別に対抗するワールドカップは、格別である。より個人的な観戦型スポーツでは「敗れたとはいえ良い試合だ」などと満足できるのと、好対照である。応援型スポーツのサッカーは、なんとか勝ってほしい。そして一次リーグを勝ち残ってこそ、その先にしかない世界も見えてくる。
その中での時間稼ぎは、プレーとしては鑑賞価値がないとしても、なおファンの期待を満たす要素がある。さらに、現行制度には裏目に出るリスクもあって、これがドラマを構成する。こうした要素が揃っているサッカーの予選において、ボール回しは悪ではない。
起こりえないことだが、観戦型のスポーツ、たとえばテニスでボール回しなど見せられたら、観客はたまったものではない。だがそれとこれとはわけが違う。サッカーの時間稼ぎは、応援型スポーツであるからこそ許される、ドラマの一幕なのである。
決勝トーナメントのベルギー戦は心に残る名勝負であった。サッカーの女神は、最後に日本に微笑まなかったが、それは人事を尽くした上の偶然の世界と見るべきである。
ヤン・フェルトンゲン選手のヘディングは、これしかないというような微妙な軌道で、緩やかに日本ゴールに飛び込んだ。いかに修練を積んだプロとはいえ、偶然の助けなしにここまでの狙いはつけられなかっただろう。
終盤の本田圭佑選手のフリーキックも、過去何度も敵ゴールを陥落させたシュートに決して遜色なく、これもわずかな偶然次第で入っていて不思議はなかった。ほかにも、どちらに転んでいてもおかしくなかったプレーが複数ある。
このベルギー戦ののち、日本を批判する論調を目にしなくなった。いわれのない非難に対する何よりの特効薬は、何としても予選を突破し、決勝トーナメントで好ゲームを見せることである。
日本代表の活躍に心から拍手したい。
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