DVに耐えるフィリピン人母子の壮絶な貧困 ママ友が毎月コメ30キロと現金3万円で支援

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長男は体育系の部活をしながらアルバイトで家計を支え、さらに一家の厳しい貧困状態を知ったママ友である村上さんが全面的に支援している。家族や友達の助け合いや支えがあって、なんとか最低限の生活ができている。

マイカさんは1994年、25歳のときに興行ビザで初来日した。母国で遠い親戚から「日本でタレント活動する仕事がある」と誘われ、家族のために日本へ行くことを決めた。マイカさんの家だけではなく、フィリピン国民はごく一部を除き、多くの人が貧しかった。長女である自分が日本に行けば、家族は貧しさから抜けることができる。そう思ったという。

彼女は現地の仲介人に言われるまま歌や踊りを必死に練習し、試験を受けて日本への切符を手にした。タレントといわれても、いったい何をするのか。実際に日本で働くまで具体的にどんな仕事かわからなかった。日本の地方のパブでショーをするホステスの仕事だった。

興行ビザの期限は3カ月。1度更新ができるので、6カ月働いたら帰国する。

31歳の4度目の入国のとき、客だった11歳年上の夫と知り合って恋愛した。妊娠したので、2人で話し合って結婚することになった。当時、夫の自営業は順調だった。最初は夫を好きで信じていたので、なに苦労することなく、日本で普通の暮らしができると思っていた。お腹にいる子どもが貧困に陥るなど、夢にも思わなかった。

入籍後はタレント活動はやめた。1歳下の長女が生まれて、永住権をもらった。長男が小学生になってから食品工場で働いた。特別な技能がない外国人の雇用は、人手不足の工場しかなかった。選択肢はなく、人並みに平均賃金程度を稼げる雇用は望みようがなかった。

工場勤務を始めて共稼ぎになった頃、夫の仕事はうまくいかなくなった。月30万円入れてくれたおカネが20万円になり、15万円になり、最終的には一切のおカネを入れなくなった。夫の収入はあったが、子どもには興味がなく、自分の飲食や交遊を優先した。

日常的なDVも始まった

「時給1000円ないから月14万円くらいしか稼げない。夜勤もするようになって16万円~18万円。夫はおカネをまったくくれなくなって、当時8万円もした家賃も全部私が払った。貧乏よりひどくてマイナスです。足りないおカネは自分のクレジットカードで払うしかなかった」

経済的に苦しくなると、夫はイライラするようになった。日常的なドメスティック・バイオレンス(DV)も始まった。そもそも外国人の非正規雇用で3人の子どもを抱えることだけで、経済的に破綻している。マイカさんが夫におカネのことを言うと、怒鳴って激情して暴力を振るった。警察ざたになり、児童相談所に駆け込んだことも何度かあった。

「夫はいつもバカバカバカばかり言って、殴る蹴る。なにかするとバカと怒鳴られる。もう、どうして怒鳴るのかわからないし、おカネのことを言うととにかく怒った。夫がおカネを入れてくれたときはフィリピンにも毎月おカネを送っていたけど、実家にはもう無理って謝った。もうずっと、家族におカネを送れるような状況じゃないです」

夫の暴力が酷いとき、子どもを連れてフィリピンに逃げたこともある。しかし、子どもは日本国籍の日本人で、日本の学校に通っている。フィリピンに逃げることができるのは自分だけ、子どもは夫の元に戻すしかない。夫の暴力に耐えて、自分一人で3人の子どもを育てるしか選択肢はなかった。生きていくために夜勤もするようになって、子育てと労働、それに夫の暴力と過酷な日々となった。

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