今回、筆者が注目したのは、この事件の根幹にある、体育会系部活にはびこっている「コミュ障(コミュニケーション障害)風土」である。選手やコーチ、監督の会見から浮かび上がってきたのは、まっとうな意思疎通とは呼べない、絶望的に「言語不明瞭」なコミュニケーション不全の実態だ。
日本では学生の部活にとどまらず、スポーツ界全体に、上意下達的な「絶対服従」文化がまだまだ根強い。多くの競技において、日本の企業同様、監督(→コーチ)→選手といった、「命令」「指示」という「シャンパンタワー」のような一方通行のフローしかなく、下から上、横同士といったコミュニケーションの仕組みはぜい弱だ。
今回、加害選手が会見で、「監督とは話をする機会がない」と吐露していたことにも驚かされた。監督の意図をコーチが「忖度」し、選手に伝えるという作法だったのか、そもそも、監督が一方的に話をするだけで、「対話」をする機会が全くないことなのか、はわからない。しかし、いずれにせよ、監督と選手の間ではまっとうにコミュニケーションが成り立っていなかったことは間違いない。
青山学院大学陸上部の原晋監督はこうした「強権的なカルチャー」に異論を唱え、「コミュニケーション重視」の指導で実績を上げている(参考記事:青学・原監督の「コミュ力」は何がスゴいのか)。徹底した対話により、選手本人に問題を気づかせ、自主性を芽生えさせるというやり方だ。
その一方で、「恐怖」「恫喝」「威圧」で選手を支配する日大アメフト部のような前時代的なスポ魂手法もまだまだ健在だ。命令によって髪型を坊主にさせるなど陰湿な行為はまさにパワハラそのものといえる。「変わらない限り、試合にも練習にも出さない」「(対戦)相手のことを考える必要はない」などと説き、そうしたスパルタニズムに耐えたものだけが、試合に出られる、レギュラーになれる、といった超マッチョ信仰は反吐が出るほど醜悪だ。
これは日本の組織全体に言えることだが、ほとんど、意味を成さず、具体的な行動の喚起に結びつくことのない抽象語を多用する土壌もある。コーチや監督からは「やる気が足りない」「闘志が足りない」「思い切って行け」「必死にやれ」という指示があったようだが、「やる気」「闘志」「思い切って」「必死に」と言われて、具体的に行うべきことを想起できる人はいないだろう。ニンニク注射を打て、という意味に取ることもできるし、自分の両ホホを平手打ちして鼓舞しろ、というふうに捉えることもできる。要するに、具体的な意味を持っているわけではないのだ。
恐怖下に置いた選手をマインドコントロール
抽象語の極めつけは、内田監督も多用する「しっかりとやってくれ!」といった指示である。この「しっかり」、日本人が大好きな「よろしく」同様、英訳しにくい。あいまいで、いかようにも解釈されうるからだ。
このように、具体的なイメージが脳裏に浮かぶことのない、ふわふわした精神論、根性論的な言葉のシャワーの中で、「クオーターバックをつぶしてこい」という指示は明らかに生々しく、具体的で、異質だ。
いかに、「(相手チームの選手を傷つけろというような)意図はなかった」と強弁したところで、その後、反則を犯した加害選手を諫めるでもなかったコーチや監督の言動を見れば、まさに、文字通り「ぶっつぶせ」という指示以外の何物でもなかったことがわかるし、恐怖下に置いた選手をマインドコントロールしていたことは明々白々だ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら