ベオグラードを走る日本のバスが伝えること 知られざる中欧の親日国「セルビア」
15世紀以降はおよそ400年にわたり、バルカンに進出したオスマン帝国による支配を受ける。一方、ベオグラード市の北辺を流れるドナウ川の北側、現在のセルビア共和国ヴォイヴォディナ自治州のエリアは、近世においてはオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)の領土であった。
こうした周辺諸勢力からのさまざまな脅威にさらされる中で、「宗教は東方正教会系のセルビア正教会、言語はセルビア語というように独自のアイデンティティを築いた。一方で周辺から受けた影響も大きく、サルマというロールキャベツや、トルココーヒーなどはトルコからもたらされた食文化だ」(グリシッチ大使)という。
セルビアがオスマンの支配から独立し、近代王国が成立したのは1882年、日本の明治維新より15年ほど後のことだ。その際、「新国王であるミラン・オブレノヴィッチ1世から、フランス語による親書がパリの日本公使館を通じて明治天皇に届けられ、明治天皇からの返書が国王へ送られた」(グリシッチ大使)のが、日本との交流の始まりとなる。
20世紀になると、2度のバルカン戦争を経て第1次世界大戦が始まる。「オーストリアによるボスニア併合に反対するボスニア出身のセルビア系青年が、オーストリアの皇位継承者夫妻を暗殺」したという第1次大戦勃発の契機となったサラエヴォ事件に関する歴史教科書の記述を記憶している人は多いだろう。
「ヤパナッツ」が活躍する理由
第1次大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、スロべニア人、クロアチア人、セルビア人の統一国家が形成され、やがて、南スラヴ人の国家を意味するユーゴスラビア王国となる。
第2次世界大戦時にはナチス・ドイツの侵略を受け、戦後はパルチザン運動の指導者から大統領に就任したチトー大統領の下、スロべニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアとともにユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成共和国となる。
本稿では詳細に触れることはできないが、この社会主義ユーゴスラビア崩壊にともない、各構成共和国が独立する過程で起きた1990年代のいわゆる「旧ユーゴ紛争」においてさまざまな惨劇が起きた。
西側の報道や映画『ハンティング・パーティ』(2007年アメリカ)など、セルビアは悪玉として描かれることが多い。しかし、現地を詳細に取材したジャーナリストのレポート『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(2005年 木村元彦著)などを読めば、紛争はどちらかを善玉・悪玉と割り切れるような単純なものでないことが理解できる。紛争をめぐってセルビアが強く糾弾される一方、セルビア人と対立するアルバニア人によるセルビア人拉致問題などに対する西欧諸国の対応の甘さなど、ダブルスタンダードなのではないかとの疑念を感じる事例が多々ある。
ベオグラードが大きな被害を受けたのが、いわゆる「コソボ紛争」時の1999年3月から3カ月にわたり実行されたNATO(北大西洋条約機構)軍による空爆だ。
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