ある昼下がり。平日にもかかわらず、秋葉原駅前の交差点では歩道からはみ出そうなほどの人が青信号を待っている。聞き慣れない言葉が飛び交い、大きなキャリーバッグを引きずる歩行者もちらほら見掛ける。
駅前の「家電」量販店に並ぶのは宝飾品に化粧品、医薬品と家電製品の存在感は薄い。都内でもあまり目にすることのない鉄瓶ですら、ここでは20種類ほど並んでいる。「お客さんは中国・韓国からがほとんど。日本人はあまり来ません」。そう話す駅前の家電量販店の従業員も、中国から出稼ぎに来た身だ。
電気街からサブカルチャーの拠点を経て、最近では訪日観光客による「爆買い」に沸く秋葉原。文化の発信源たる街に対して、ある業界だけは少し異なった視線を送っていた。一等地にも関わらず、再開発が進んでいない――。
三十年来の再開発が、いよいよピークを迎えようとしている。
存在感が薄かった秋葉原の転換点
今や電気街の代名詞的存在となった秋葉原だが、戦前には神田や上野といった周辺の繁華街に挟まれ、電気街としての存在感は高くなかった。
だが太平洋戦争で秋葉原を含む一帯が焼け野原となり、戦後払い下げ品を中心とする闇市が形成されていったこと、付近にあった電機工業専門学校(現・東京電機大学)の学生の間でラジオの開発がはやり電子部品が売れたこと、さらに当時の秋葉原は国鉄や都電の路線が集まりアクセスがよかったことなど、さまざまな要因から電子部品業者が秋葉原に集まってきた。
転機となったのは、駅前にあった施設の廃止・移転が1970年以降に続々と行われていったことだ。1975年に秋葉原駅東側にあった旧国鉄の貨物駅が廃止され、1989年には駅西側の神田青果市場が大田区に移転した。鉄道公団(当時)が保有していた土地約1万6620平方メートル、神田市場が移転した後の東京都有地1万5740平方メートルの広大な空き地が誕生した。
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