「昔はよく魚の値段で客とやり合ったもんだ。値段で折り合えずに客が帰ろうとすると、『わかったよ!これでどうだい!』ってそろばんの珠を1個ずらしてな・・・・・・」
若かりし頃の築地での思い出を語るのは、マグロ仲買人の野末誠さん(80)だ。築地市場に足を踏み入れて以来、かれこれ60年以上が経つ。その間に冷凍マグロが普及したり、カタカナ語が飛び交うようになったりと、時代に合わせて築地市場も目まぐるしく変化してきたという。
酸いも甘いも知り尽くした野末さんでも、今回ばかりは初めての体験だ。2018年10月11日、すったもんだの末、ようやく築地市場が豊洲に移転する。東京の胃袋を支える市場は、商店がひしめき合う平場から高層ビルへと変貌する。
移転問題は過去にもあった
野末さんの受け止め方は複雑だ。「生魚を食べる文化は築地が作ったのさ。築地の魚は生でも安心、っていう信頼があるからな。豊洲にはそれがない。移転を機に辞める仲買人も結構いるぞ」。
市場で働く人々の意見も一枚岩ではない。同じくマグロ仲買人の生田與克(よしかつ)さん(50)は「豊洲市場はコールドチェーン(生鮮食品をつねに低温に保つシステム)が徹底している」と新市場に期待を示す。築地か豊洲かの議論は尽きそうにない中、どこへ向かうのか。
いつの時代も、卸売市場の移転はもめにもめた。東京での魚河岸発祥の地は日本橋だ。
1590年、関東に入封した徳川家康は、江戸市中に魚を売買する場所がなかったため、摂津国佃村(現大阪市)から漁師を呼び寄せた。彼らは近海で獲った魚を幕府に献上する傍ら、余った魚を日本橋の一角で販売するようになった。
江戸の発展に伴い、他地域の漁師もこぞって日本橋に進出。1615年には現在の奈良県から来た名主が日本橋小田原町に新たな魚市場を開設するなど、一帯に魚の問屋が立ち並ぶようになる。
1625年には静岡の漁師と魚を仕入れる契約を結ぶなど全国から魚が集まり、明治時代にあった1883年には年間の取扱高が230万円にも達した。ちなみに当時の大卒初任給は約10円である。
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