築地市場、約100年前もあった移転騒動の深層 日本橋、築地、豊洲…「東京の魚河岸」の変遷

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当時の日本橋市場はきちんとした店構えなどなく、道端で魚を売買するのが当たり前で、取引も場当たり的だった。そのため急増する取扱量や複雑化する流通ルートに対応できず、衛生管理も不十分だった。さらに当時の東京は鉄道や電気・ガス・水道などの公共インフラ整備のために大規模な都市開発が必要で、区画整理のためにも卸売市場の移転を模索していた。

東京府(当時)は1889年に都市計画の素案「東京市区改正設計」を発表し、日本橋市場の日本橋区(現中央区の一部)・芝区(現港区の一部)・深川区(現江東区の一部)への移転を命じた。だが、移転費用をめぐって日本橋魚市場組合が反発、1902年の臨時総会では「(日本橋市場への)絶対的永住を希望」し、居座りを決議するなど、市場移転は遅々として進まなかった。

一時は徹底抗戦の構えを見せた組合だったが、徐々に移転経費が安く済むなら移転もやむなしという者や、日本橋市場の建て替えを挙げる者が現れる。市場は移転派・非移転派に分断され、収拾がつかなくなっていった。

関東大震災を契機に築地へ

移転問題がこじれる中、1923年9月に関東大震災が市場を襲う。市場一帯は全焼し、370人以上の市場関係者が命を落とす大惨事となった。残った人々は、芝浦日の出町への仮移転を余儀なくされた。

大震災を受けて一時休戦となった移転問題だったが、時を経ずして再燃する。移転先の芝浦は日本橋のわずか5分の1以下の広さで、ひとたび雨が降れば地面がぬかるむ土地だったため、移転を求める声はたちまち広がりを見せた。

焼け野原の日本橋に無理やり店を構える者、新天地を探す者、はたまた芝浦に居座り続けようとする者など、移転をめぐってまたも組合が四分五裂した。

程なくして、震災を機に移転問題に決着をつけたい警察が戒厳令を理由に日本橋市場を立入禁止にしたことで、日本橋へとんぼ返りするもくろみはついえた。

その頃、東京市が築地の海軍技術研究所跡地に土地を確保し、築地への移転方針を決定。大震災からおよそ3カ月後の1923年11月30日、日本橋魚市場組合も築地移転を決議し、翌12月1日に東京市設築地市場(当時)が開場した。

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