さて、残り2つの今回のノーベル経済学賞のポイントは、紙幅の関係から簡単に述べるにとどめよう。
大衆化したノーベル賞
もうひとつのポイントは、ノーベル賞が大衆化したということである。これは第一のポイントとも関係するが、受賞分野が、現代ファイナンスとか、行動ファイナンスといった、専門家によるカテゴリーに対応せず、現実の世の中のトピックがそのまま使われているということだ。つまり、資産市場の価格形成のなぞ、それに切り込んだ、ということだ。ハンセンについて、触れる機会がなかったが、彼の学問的アプローチは、方法論として非常に重要で、この分野の発展には今後とも重要であり、彼が受賞するのは当然なのだが、シラーとファーマという組み合わせは、専門家には思いつかない。同じような研究をしている同等の学者にも与えようということになるからだ。そういった学者の側の常識ではなく、世の中から見て役に立つ重要な学問として経済学が見られており、トピックの設定が、大衆にもわかる、社会の側の要請であることが素晴らしいことだ。これは、経済学が未熟でも、社会のニーズがあるという意味で学問の将来性が高いことを示している。
第三には、日本人の受賞についてである。
日本人として、今、一番近いといわれているのはプリンストン大学の清滝信宏氏である。しかし、実は、彼が日本人であるかどうかは、どうでもいいことなのだ。重要なのは、国籍や人種ではなく、研究拠点をどこに置いているか、なのだ。
かつて、米国に長く在住している研究者が、ノーベル賞を受賞したことで、「日本人受賞者」として、日本の取材陣が殺到した。だが、本人は、そういわれることに違和感を感じていたような雰囲気があったが、まさにそういうことなのだ。
重要なのは、日本の大学などの研究拠点が価値あるものかどうか、「場」として、どれだけ人類の英知を生み出すことができているか、ということなのだ。
経済学以外の他の分野では、日本人の受賞者が、近年比較的続いており、たとえば日本人の理科の能力の高さを指摘されることもあるが、それは関係ない。ノーベル賞を取るかどうか、は才能ではなく、環境と努力だからだ。重要なのは、それらの研究者が、日本の大学を研究拠点として選んでいたかどうかにあるのだ。だから、もし、中国人やインド人あるいはスウェーデン人が日本の大学で研究しており、彼らが受賞したとなれば、それは、日本人が受賞した以上に、日本にとって意義の大きいことなのだ。
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