しかし、こうした人々の活動で私たちが代償を払わされることにもなる。実際、パトリック・ボルトンらによる11年の論文は、投機や取引のかなりの部分は「特殊利益追求論(レントシーキング)」だと論じている。言い換えれば、本来、無料かもしれない場所からレント(地代)を徴取することを可能にしただけの無駄な活動だということだ。
レントシーキングの古典的な例は、封建領主が自分の領地を流れる川に鎖を渡し、船から通行料金を取る徴収人を雇うというものだ。鎖や徴収人は何一つ生産的なことはしない。領主が川に改善を施したわけでもなく、直接、間接のいかなる形でも領主自身を除いて誰も得はしない。領主は、無料だったことに金儲けする方法を見いだしたにすぎない。もし川沿いの多くの領主たちが追随すれば、川の使用はひどく制限されるかもしれない。
理不尽との見方多いグラス・スティーガル法
「その他の金融」業界の人々は同様の行為に携わることがよくある。いちばんおいしい所を持っていき、仲間以外に「負の外部性」をもたらす。もし金融企業が自ら拒んだ不良資産(たとえば08年の金融危機を引き起こしたサブプライム住宅ローン担保証券)を知識がより少ない投資家たちに押し付けたとしたら、社会貢献していないという点では川に鎖を渡す領主と変わりはない。
近く発表される論文でパトリック・ボルトンはこの見方を進めて、銀行に目を向け、グラス・スティーガル法(商業銀行が投資銀行業に分類される一連の活動に携わることを禁止した)に注目している。99年にグラム・リーチ・ブライリー法がグラス・スティーガル法を無効にして以来、銀行はますます封建領主のように振る舞っている。
10年のドッド・フランク法は、商業銀行による自己勘定取引を禁止するボルカールールを課すことで、グラス・スティーガル法の禁止規定にやや似た方策を打ち出したが、もっと多くのことができるはずだ。
多くの人々の見方によれば、グラス・スティーガル法は理不尽だった。銀行の活動が金融インフラ全体を危機に陥れないことを担保する規制当局があるかぎり、銀行は何でも望む業務に携わることを許されるべきではないだろうか。
実際、もともとのグラス・スティーガル法の主要な利点は、専門的というより社会学的なものであったかもしれない。同法はビジネス風土や環境を微妙に変えた。証券業務を分離することによって、銀行は従来からの中核業務に、より集中できたかもしれない。
パトリック・ボルトンと同僚たちは多くの点で正しいようだ。ただし、最も優秀で聡明な人々の多くが、現在人気のある「その他の金融」をキャリアに選択することの社会的な価値については、まだ評価できていない。投機的活動には多くの利点といくつかの難点があり、それらは非常に数値化しづらい。このような活動を侵害する規制に関しては十分注意する必要があるが、状況が明確になったときには規制作りを躊躇すべきではない。
(c) Project Syndicate
(撮影:ロイター/アフロ =週刊東洋経済2013年10月12日号)
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