(第15回)阿久悠の日記活用術
●1981年以来、書き続けた日記
今回は、阿久悠の“日記術”について考察してみよう。
『日記力--「日記」を書く生活のすすめ』(講談社+α新書)の著者でもある彼は、作詞家として、あるいは作家としての情報収集、情報整理のために、「日記」を書き続けた。1981年以来のことである。そのきっかけを作ったのは、前年のクリスマス・プレゼントに、イタリア製の「Day by Day」という日記帳を贈ったTBSの演出家(現・相談役)鴨下信一だった。
以後、阿久悠は死に至るまでこの日記帳を更新し続け、1日も欠かさず克明に「その日の出来事」を記録していく。それはスケジュール帳でも、個人的な備忘録でもない、阿久悠自身の編集による1冊の「その日の出来事」集だった。
言葉のアンテナを縦横に張りめぐらし、さらにそれを複数のチャンネルに振り分ける。やがてそこから、歌詞になる言葉が沈殿し、多様に結晶した言葉の滴となって歌に定着する。彼はこの歌詞生成のためのハード・トレーニングとして、黙々と「日記」をつけたのだ。このアナログ的な手問暇のかけ方は、どんどんデジタル的サンプリングの傾向を強めている今風の歌詞の味気なさと対照的だ。
雑誌『大人のウォーカー』の2008年3月号、「[総力特集]昭和歌謡の巨人・阿久悠」には、死の2週間ばかり前に記された最後の日記が公開されている。
そこには、大相撲夏場所の取組表の新聞切り抜き、台風情報、テニスの石川遼選手へのチェック、「消えた年金問題」から、マイケル・ムーア監督作品『シッコ』への言及まで、この作詞家の衰えぬ好奇心が存分に披瀝されている。
阿久悠が恐れたのは、自身が気づかぬまま、時代の空気の読めない無用の作詞家に転落することだった。
そのために、彼の言葉は、常に「市場」につながっていなければならない。市場原理に合致しない言葉は、使用不可の事前チェックを受け、次々にふるい落とされるのだ。
「年金問題」が、そのまま歌になるわけではない。朝青龍の勝ち負けが、時代と直結しているわけでもない。ただ、「その日の出来事」の無数の集積として「時代」があり、その個々のデータをこまめに拾い上げることを怠っていては、知らず知らずに「時代」からはずれていくことは、はっきりしている。
阿久悠の「日記力」とは、だから彼の「作詞力」を支える原動力でもあった。