「おばあちゃん子でしたから、同級生と比べるとかなり古い環境で育ちましたね」
祖母からは終戦直後の貧しい時代の話をよく聞かされた。たまに当時作られていた、すいとんを作ってくれた。
「食べられるときに食べておかないと、次にいつ食べられるかわからないよ」とよく言われた。
小学生の頃、将来なりたい職業を聞かれたときは「海軍の軍人」と答えていたという。日本に軍隊はないことを後から知ってあきらめた。
「小学生時代はいわゆる勉強(国語、算数、理科、社会)はよくできたのですが、それ以外はまったくダメでした。足も遅く、絵も下手、歌も苦手で……。“何でもできる人”という感じでは全然なかったです」
父親からは中学受験を勧められなかった。小学校卒業後は公立の中学校へ進んだ。後悔はないが、それでも私立の中学校へ通っていたらどうなっていただろうとも思う。
自分の得意なことだけに専念できるようになっていく
高校は自分で情報を収集し、無名だが進学実績が伸びている学校を選び進学した。
「進学すればするほど、自分の得意なことだけに専念できるようになっていくので楽でしたね。
ただ今思えば勉強もそんなに向いていなかったと感じます。ほかのことよりはマシだっただけで。とにかく『修行だ』『修練の場だ』と腹をくくって受験勉強をしていました」
懸命に頑張ったが最初の年の受験は失敗した。大島さんはかなり落ち込んだ。
「浪人したことで『傷ひとつない経歴』ではありえなくなりました。それで何だかどうでもよくなってしまいました。浪人時代の何にも属さない1年間が、非会社員である今につながっていますね」
浪人時代は駿台予備学校に通った。
1年間を無駄にするのは嫌だった。せめて、予備校のある御茶ノ水周辺を誰よりも詳しくなろうと思い、路地という路地を歩き回り探索した。次の受験では合格するという確信があったため、あまり受験勉強はしなかった。
そして、翌年は東京大学に合格した。
「その頃、将来は経済学者になるつもりでした。多分大学の同級生の中では一番勉強していたと思います。重たくて分厚い本をたくさん読んで、腕に筋肉がつきました(笑)」
東京大学を卒業し、アメリカのコロンビア大学大学院に進学することになった。卒業の3月から入学の9月まで時間が空いた。
「浪人していたので、今さら経歴に空白期間があることを気にしなくなっていました。その期間、家業である不動産業にどっぷり浸かっていました。それが楽しくて、大学院に進学する頃には経済学に対する意欲がだいぶ減ってしまっていました。今思えばそれが失敗だったのかもしれませんね(笑)」
そして2001年9月に予定どおりコロンビア大学大学院に進学した。
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